2011.5.17(火)曇、雨
高句麗の墓制に積石墓というのがある。封土のかわりに石塊を積み上げて塚としているもので、長野県の北部には千を超える積石墓があるという。松本から飯山に向かう犀川周辺、上田あたりの千曲川周辺が最も濃厚だ。自転車旅行で通った所だが、興味が無いため一切見ることは無かったし、偶然見かけることもなかった。もちろん古代の墓だから庶民のものではなくて、それなりの豪族のものだろう。
「大唐内のこと」(49)(2011.4.19)に書いた老富の不思議な墓は朝鮮で一般的な土饅頭のような墓よりもこれが近いような気がする。実は有安でも同様の墓を見つけたのだが、古いものなのか、偶然に石を積んだだけのものなのか確認できていないので公表は避けたい。
上林に残る不思議なお墓、規模は違うが積石塚には違いない。
学生時代に私は小田急線の南林間と言うところに住んでいた。小田急線が東京都に入る頃狛江(こまえ)という駅があった。これが高句麗と関係があるとは当時はおもいもつかなかった。この地には多くの古墳があって、典型的な高句麗系の古墳もあるそうだ。また、西武池袋線の高麗(こま)と言うところに日和田山という山があって、そこにロックゲレンデがあった。傾斜はあったが、1ピッチ程度の小さな岩壁だったと思う。これも学生時代に足繁く通ったところで、今から思えば時間をかけてよくぞそんなところまで行ってたなあと思う。それだけ東京にはロックゲレンデが少なかったわけだ。この地はもともと高麗郡で、八世紀の初めに高麗人を以て高麗郡を置くとあるそうだ。高句麗が滅んで亡命、帰化した高句麗人を集めて、開拓させたということのようだ。
高句麗文化が最も濃厚なのはやはり畿内で、中河内には巨摩郷(こまごう)があって、許麻神社や高麗寺など所以の寺社も多く、高句麗系の古墳も存在している。京都は木津川市に上狛、精華町に下狛があり、木津川もかつては輪韓川(わからがわ)と呼ばれていたという。百済や新羅が半島の文化伝導の主役のように思いがちだが、遠い国の高句麗もしっかり日本に根ざしているのだ。
【作業日誌 5/17】
道具収納棚完成
今日のじょん:先日ユキちゃんがラッキョウ畑でおしっこした。そうするとじょんが毎朝そこでおしっこするようになった。土中のラッキョウとはいえ、あまり良い情況じゃないので「ダメッ」と一回叱ったら次の日からしなくなった。えらいねえじょんは、、、。 以前は左のラッキョウにかけていた。