2011.7.19(火)雨、台風6号
大唐内は雑木林に囲まれた谷奥の集落であるが、古代集落を彷彿させるものがある。 中略 こんな村は北山では珍しい。私はこんな村を見ると古代人が居を求めた或る理想形を感じる。日本の故郷の原型の一つであろう。このことと関連して私にはこの村から山越えの文化が感じられる。山越えの文化とは、由良川を遡り更に上林川を遡ってきた川筋からの文化ではなく、直接日本海から胡麻峠を越した文化形態である。云々
途中を略して申し訳ないが、その略したところが実は美しい文章なのである。峠越し文化論を書いた時(2011.4.3、21、23参照)この文章に出合って、人は共通した想いを持つものであると感激した。私が峠越しの文化を感じたのは大唐内であり、大原である。丹波負笈録大唐内村の項に
前文略 市茅野大唐内二村ハ上林七里谷の奥にて風体かはりし所也。中文略
男女本より能業の所也 然ニ家居人品よく 手跡算術 嗜能所と云人の内義京に似
とある。負笈録の著者も同じ想いを抱いていたに違いない。
その峠越し文化の一つの主役である胡麻峠について金久氏は次のように述べている。
前文略(丹波國大絵図に護摩峠とあるのをみて) 胡麻と護摩ではまったく意味が違う。胡麻は食べるゴマであり、護摩は密教で知恵の火で焚く煩悩逃散の儀式である。上林谷には君尾山光明寺という名刹があるこの寺は平安朝の頃真言密教の大道場として栄えたということであるから、護摩峠の名の由来はこの信仰にかかわりがあるとも考えられる。海の見える峠で護摩を焚くという発想は、あの時代の雄大な山岳宗教からすれば決して不自然ではないと思えるのである。
大唐内から胡麻峠方面、胡麻峠は正面の小ピークの向こうで見えない。(2010.11)
金久氏はモータリゼーションの影で消えゆく峠に並々ならぬ愛情を注がれ、含蓄のある美しい文章で峠達を紹介されている、胡麻峠の由来についてはこうしか書きようがないという文章である。私は胡麻峠の由来を知っている。というより多分こうではないかというものだが、それを文章にすると次のとおりとなる。
祖母谷川の上流、多門院の奥に胡麻というところがある。胡麻峠から多門院に向かった道はこの集落に降り着くのだろう。
つまり胡麻峠の由来は多門院の小字胡麻に由来するものと思う。確かに胡麻という小字は存在するのだが、果たして胡麻峠からの道にあるのか確認したい。
それにしてもなんと愛想のない寒々とした文章になるのだろう。
金久氏はその麓に胡麻が存在することを知っていて、先程の文章を書かれたのではないかとげすの勘ぐりをしてしまう。「北山の峠」は峠や山名の由来を紐解く本ではないし、地名考証を専門的になされているものでもない。氏が峠を歩かれておれば、胡麻地名には気づいておられることと思う。しかし氏の峠に対する想いが、私が書いたような味気ない文では許せなかったのではないかと思ってしまうのである。つづく(大唐内のこと(66)は2011.7.14)
【作業日誌 7/19】
ガーデン、畑台風対策
難儀なのはユーカリの大木、枝振りは凄いのだが根が頼りない、風が吹くたんびに倒れている。とりあえず杉丸太で補強。
今日のじょん:苦手の風に神経をやられて、遂に又吐いてしまった。朝おしっこうんこに出たときは、大嵐で森も木も揺れ動いていたのだが、それなりにどちらも済ますのはなんとも不思議ではある。夜は気の毒なぐらい怖がっている。