晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大唐内のこと(68) 丸山とイモリ村 7/22

2011-07-23 | 歴史・民俗

2011.7.22(金)曇

 胡麻峠の由来は金久氏の情緒あるものでなく、単に多門院の胡麻に降りる峠という味気ないものであった。もっとも胡麻という小字については未確認なので、いずれ現地を訪れてみようと思っている。そういえば坪坂峠の関屋の坪について調べようと綾部図書館に行く。角川の地名辞書ぐらいしか無かったのだが、その中の小字一覧を何度調べても高浜町が出てこない。見落としがないか10回ぐらい頁を繰って「協力のない自治体については表示していません」という旨の説明を見つける。高浜町の小字についてはこの辞書に載っていないんだ。やはり現地に行って確認するしか無さそうだ。舞鶴市多門院の胡麻については角川地名大辞典の京都府に掲載されている。位置関係は解らないのだが、他の小字の順からみて、峠の降り口のような気がする。いずれにしても現地を訪ねる必要はある。
 胡麻という奇妙な地名について調べるには同じ地名を訪ねるのが一番である。幸い南丹市、旧日吉町に胡麻という所がある。市の図書館にいけば胡麻の由来は解るだろうと訪ねる。郷土史など探していると、丹波史談会という郷土史研究会の発行する「丹波」という冊子に「胡麻高原探訪」という記事があり、ここに胡麻の由来についての論文が書かれている。
 説としては(1)胡麻=高麗(こま)、つまり高句麗人移民説(2)胡麻=駒、つまり馬説(3)胡麻=コマ、つまり川の転回点、川の曲流蛇行する氾濫源説の三つが記されている。Img_3293
  古代人はこの胡麻の丸山をどういう気持で見ていただろうか。

 私がまず頭に浮かんだのは(1)の高句麗人説である。高句麗からの使節団が使った道は琵琶湖ルートが主で丹波ルートもあったように読んだが、まさかこのルートは使うまい。しかし高句麗が滅んだ際(668年)多くの亡命者が渡来したとあるが、新羅、唐連合軍に敗れたわけだから、新羅を通って半島の南端から渡来するわけに行かない。その多くが高句麗から直接日本海を渡ったと考えると、潮流や風向からその上陸地点は若狭、丹後が濃厚である。と想像すると彼らが胡麻峠を越え、洞峠や大栗峠を越えて由良川上流に出、胡麻を通過、あるいは定着しても不思議ではない。
 「胡麻高原探訪」では、高句麗ー高麗という変化がはっきりしなくて、中間的地名が存在しないという理由でこの説は没となっている。私は高麗や狛が高句麗人居住地として歴史的に認められていることだし、高句麗人説はあり得ることだと思う。むしろ問題はもし仮に高句麗人居住があったとしたら、その地や周辺に高句麗の遺跡や地名などあってもおかしくはないと思う。例えば大唐内の栃で見た石積みの墓が高句麗の積石墓の流れを汲むものであって、胡麻にも存在したら、これは事件だと思うのである。

【作業日誌 7/22】
庭木剪定(カナメ終了、櫨半分)Img_3344
薪割り

今日はこのくらいにしといたら~。

 今日のじょん:芝生を刈ってサッチを積んでいたら、朝一番に妙に脅えている。昨日まで別段どうってこと無かったんだが、吠え出すわ、腰は引けているわでカメラを向けた。昨日ファーミネーターした毛を乗せていたためかなあ。それだと自分の毛だから警戒するはずもないし、サッチの間からひょろったしたきのこがいくつか出ているからそれに驚いているのかなあ。じょんのみぞ知るというところだ。Img_3335 Img_3336

 

コメント
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