晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(5) 7/31

2011-07-31 | 上林地名考

2011.7.31(日)曇

 大栗峠についてはあとは現地調査あるいは踏査をするばかりと言うことなのだが、どうしてもそれらの前に書いておきたいことがある。それは大栗地名がどこにあるかということと、「左京道 右弓削」の石碑位置の予想、そして峠地名に関する一考察である。これらは現地で調べればすぐに解ることもあろう、しかし事前に想像しておくことによって、従前に述べてきた仮説が真実に一歩近づくということもあるだろうし、予想とまるで違っていたら、また一から考え直せば良いことだ。
 大栗はどこか?
 これこそ現地に赴けば簡単に解ることだろう。しかし何も解らないうちに予想しておきたい。大栗地名が崩壊地名でそのことによって志古田道が京街道の座を奪われたとする私の説が正しければ、大栗は街道沿いに無ければならないし、そこは崩壊地形でなければならない。二万五千分の一地図では志古田ルートは完全に谷筋をトレースしているのだが、「北山の峠」では大栗峠から左手の尾根に乗り、谷に下り、それからはずっと右岸を高巻いて下る、という風に書いている。これは昭和55年に整備されたハイキングコース以前の話である。ややもすると京街道であったときとハイキング道整備前後の道には変更があるかも知れない。右岸を高巻いている部分が崩壊が激しいようだ。斜面のトラバース道と思われるので当然のことだろうが、このあたりに大栗があるのではないだろうか。小字として大栗、薬師、姥ヶ谷として続けて書かれている。姥地名も崩壊地形を表すので気になるところである。薬師は薬師堂以外に考えにくいのだが、謎の大乗院の石碑もなにか関連があるのだろうか。Img_3395
 
上林川左岸の広場から志古田。左の木の陰に二つの岩峰が見えるのだが、その辺りだろうか崩壊地点は。 


「左京道 右弓削」の石碑はどこか?
これは見つけたら大発見ということになろう。この石碑の位置によって志古田道が京街道であったことが証明されることだろう。「北山の峠」の金久氏以外にも山行記録に発見できなかったことを書いているものがいくつかある。それは当然のことだろう。多分この石碑を探すことが目的で行ったわけでなく、しかも歩いたのは京街道、志古田道そのものだったのでは無かろうか。
 奥上林村誌に「志古田の山中」とあるが、志古田から弓削に向かう道ならそれほど奥に入る必要はない、志古田の集落あたりから西に向かえば100mも登らないで弓削の集落に行ける。山中にこだわらないで、弓削に向かう間道があればその付近を探すべきでは無かろうか。
 山中にこだわるとしたら、弓削だけでなく山田、城下(石橋か)にも行ける弓削道ルートに合流する道となるのだろうが、そうなると大栗峠とさほど変わりない行程となり意味をなさなくなりそうだ。徒渉があるとしても、上林川を渡って行った方がよほど合理的だと思われる。この件に関しては弓削に向かう間道を探すのが先決のようだ。つづくImg_2597

上林禅寺から山田、竹原、瀬尾谷方面。左方のピークが大栗峠の頭(681,4m)か。全ての村に大栗峠からの道が続いている。 


【作業日誌 7/31】
草刈り(6-6)
秋ナス準備

今日のじょん:昨晩の水無月さんのバーベQの疲れが残り、人間どもは交替で昼寝する。よく見るとじょんは独り占めでず~っと寝てるのだ。いやまあよく寝られるなあと感心し、さぞかし夜は寝られないだろうなあと思いきや夜は夜でしっかり寝てござる。マイッタマイッタ。Img_3401_2

写真は散歩帰りにくつろいでいるところ。

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大栗峠考(4) 7/30

2011-07-31 | 上林地名考

2011.7.30(土)晴

 (3)峠名になっている大栗が志古田にある。
大栗が志古田のどこにありどのようなところか確認していないのではっきり言えないのだが、志古田にあることを前提にすれば志古田道が京街道の本道であることは間違いないだろう。本道でないところの地名を峠名として使うはずがないからだ。

 次に志古田道が本来の京街道であり、後にその座を弓削道に譲ったとしてその理由を考えてみよう。山道はまず尾根道が出来、索道や保守の技術が発達するにつれて下方に下がってくるものである。このことは廃村八丁の例を挙げて書いたことがある。(2010.8.23 訂正猪鼻峠 参照)
尾根道は歩く労力はかかるが、道としては作りやすく、傷みにくい。道が出来る前の獣道など必ず尾根筋には通っている。
 従って志古田道が京街道となったのは道の原則からすると矛盾することとなるが、いくつかの理由で採用されたのだと思う。一つは上林川の渡しの問題では無かろうか。若狭から来ても舞鶴から来ても上林川は渡らなければならない。堤防が出来て当時の川の様子は予想できないが地形図で見る限り、この附近で最も川幅の小さいのは志古田橋の上辺りなのである。Img_3394
 
志古田の谷は右に湾曲しており、大栗峠は手前の尾根の陰になる。


そして峠に至る道はこの志古田道が最短であることも地形図からうかがえる。
あるいは弓削ルートが当初無かったと言うことも考えられる。
 道の原則で、まず尾根道が出来るということはあるが、主要街道が必ず尾根筋になるとは限らない。むしろ上林など谷筋の方が沢山ある。ただ損傷の度合いというのは谷筋が圧倒的に高いということである。
  志古田道が京街道の座を弓削道に譲ることになったとしたら、その理由こそ大栗の地名に由来する、道の崩壊なのではないだろうか。例年繰り返される雨の季節ごとに崩壊する街道の修理に手を焼き、従前からある尾根道、あるいは新たに手を加えて作り上げた尾根道を主体とする弓削道が新京街道として脚光を浴びることとなったのではないだろうか。
 実は私は未だ志古田道も弓削道も川合に降りる道も歩いていない。ピンポイント的に大栗峠を訪れただけである。そのことだけで峠の歴史についてこれほどまでに探求心を奮い立たせ、想像力をかきたてるのは、大栗というたった二文字の地名のなせる技である。
 どのような人かは知らないのだけどバイガントという人が「地名は地理的事実の、広い意味での芸術的に圧縮されたもの」と言ったそうだ。何とも意味深な言葉である。私はあと二つほど想像すること、仮説的な発想を御紹介して、その事実関係を調べる、いわゆる裏とりを始めたいと思う。つづく
(大栗峠考(3)は2011.7.28)

今日のじょん:夕方からおとー、おかーは水無月さんの花火大会に行って留守番である。綾部駅発の臨時バスが9時半発だから10時は過ぎていただろうけど、ここまで遅い留守番は普段には無いことだ。さぞかし不安がっていることだろうと、そーっと窓から覗いてみると、普段なら窓際にへばりついて尻尾振って喜ぶくせに、なんとも寝ぼけた顔をして、「なんじゃ?」と言うような顔をしてこちらを見ている。
うーむ、案じたもんじゃないなあ。

 
 
 
 

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