晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

マンガンぱらだいす 考察編(2) 8/7

2011-08-07 | 歴史・民俗

2011.8.7(日)晴

 マンガンという鉱物についてはなんとも理解が少ない。丹波マンガン記念館に行ったときにもっと勉強していたらと思うが、実はその頃はあまり興味がなかったのだ。同様にマンガン鉱を掘っていた時代の山の持ち主も村の人も、さして興味を持たなかったのだろう。郷土史などにも出てこないし、写真なども残っていない。マンガンがどのように流通し、何に使われたのかなどあまり関係のないことだったのだろう。私の故郷川合ではマンガン坑は聞かなかったが、珪石は大々的に掘られていた。子供時分にも稼働していて、廃鉱は子供時代の探検の場所となっていた。生家も過去に珪石山の採掘権を売り、破格の金銭が入ったとのことであるが、果たして珪石がどのようなもので何に使われたか家人は知らなかったようだ。鉱業というものはそういうものなのかもしれない。
 マンガンについては詳しい知識は持ち合わせていないが、丹波が国内では有数の産地であること、特に日吉、京北あたりは良質のマンガンを産出し、殿田がその集積地であったこと、鉱山は中小資本のものがほとんどで、20人も居れば大きい方で大概は2,3人で掘っていたことぐらいのことは知っていた。
 さてマンガンの使い道だが、だれもが乾電池と思うところだろう。量も多くて値も安い炭酸マンガンは鉄鉱石に混ぜて製鉄に使われ、量も少なく値も高い二酸化マンガンは電池や釉薬、染料、マッチなどに使われるそうだ。
 アシ谷のマンガン坑からどのような種類のマンガンが出たかは解らないが、規模から言って2,3人で掘ったものだろう。坑道の入口は自然に横に走っている裂け目を天井として掘ってあり、3m程入って左に少し曲がっている。奥行きは6,7mで行き止まっている。高さは人が立っても余裕があるので2mぐらいか。広さも両手を拡げて充分だから手堀の坑道としては広い。右手中間の壁に鏨の跡が数個残っている。Img_3428 Img_3430
 
マンガン坑最奥部と壁に残された鏨の跡。


 マンガン鉱そのものは脆いものだそうだが、坑道の壁面も手で削り取れるような脆いものである。その割に坑道そのものはしっかりしており、落盤の跡などもない。従って底面は岩などが堆積していることもなく、細かい土が畑のように積もっている。よほど岩盤がしっかりしたものなのだろう。
 さて6,70年ぶりに人が入った坑道からは遺物というものはワインの瓶のみであった。DAINIPPON WINERYと銘があったように思うのだが、大日本山梨葡萄酒会社のものであれば、これは日本で初めての葡萄酒会社のものである。但し当社は明治10年に操業し、10年もたたずに解散している。瓶がリサイクルされて昭和の時代まで残っていたのかも知れない。Img_3427 Img_3434
 
泥んこで出てきたが、高橋さんがきれいに洗ってくれた。


 坑道の中にこの瓶だけが残されていたのは、坑道を去る日に乾杯をして去っていったのではあるまいか。瓶の上部が割られているのは、コルク抜きまで用意していなかったのではと想像してしまう。つづく

【作業日誌 8/7】
玉切り、太いクヌギを切り終える。

今日のじょん:かみさんが髪のカットに出かけていった。するとじょんが階段の下に頭突っ込んで妙な格好している。窓にたてずを掛け、その隙間からしか出かける車が見えないのだ。尻尾振り振り見送っている姿を見ると、思わずカメラを向けてしまった。Img_3449 Img_3450
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする