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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

AKB 長宮峠(1) 8/9

2011-08-09 | 上林界隈(AKB)

2011.8.9(火)晴

 お盆前の定休日には川合(かわい)へ墓掃除に行っている。株内で揃ってされるのだが、日曜日にされるのでこれには参加できない。やむなく定休日に行ってるが、現地に行くと先日済んだばかりということできれいになっていた。なす事もないので、墓石の年号を見たり、懐かしい珪石鉱山跡の写真を撮ったりする。先日のマンガン坑の記事に書いた川合の珪石鉱山は、生家の丁度真向かいにあり、頂上直下を大きく切り開き、坑道を堀り、鉱石はケーブルで真下の府道まで降ろしていた。稼働していた記憶は無いのだが、山肌は大きくえぐられ、ズリは府道まで続いていた。小学校の5,6年頃か、坑道まで登り、懐中電灯の灯りを頼りに中を探検した。トロッコ道が残る大きな坑道だったが、外の灯りが届くか否かのところで落盤が起きており、子供の力ではそれ以上進むことも出来なかった。Img_3459 Img_3460
 
我が家の正面の山の頂上直下に坑道があった。
その山のみぎ斜面にもあり、右写真の丸い山の麓辺りに降りしていた。

 その東側、深山にも大がかりなケーブルがあって、子供の遊び場になっていたが、その坑道はどこにあったのか知らない。小学校の1,2年生ぐらいまでだろうか、珪石鉱山で働いていた朝鮮の一家が府道沿いに住まいしていたのを憶えている。
 その廃屋の下が夏休み中の水泳場所だった。毎日飽きもせず泳いだり、魚捕りや砂遊びをしていた。懐かしく見ていると、赤色チャートが眼に入る。上林独特のものと思っていたのだが、この地にもあったのだ。先日大原の神社下の河原を探索したとき、らしいのが一個あっただけで、割合は上林に劣るが、存在することは間違いない。それにしても子供時分の記憶は当てにならない、上林に来て初めて見たような思いがしていたのだ。 Img_3462_2Img_3461
 
かつての水泳場、川底に赤色チャートが見える。


  帰りに買い物を頼まれていたので、岼から綾部に抜ける長宮峠を越えることにする。岼の渋谷神社で府道59号から709号に入る。その右手に当たる山の中腹にも過去の珪石鉱山があり、長い間土砂が見えていた。ここも小学校の4年生当時か何人かで探検し、コウモリを捕獲して学校に持っていったことがある。
 長宮峠は参勤交代の道で、綾部街道であると聞いたことがあるが、とりあえず京都に向かうとして、この道はどう考えても遠回りだと思われるのだが、、。藩の見回り役の道というのは肯ける。綾部藩にとって河合村というのはドル箱だったと読んだことがある。山村にて石高は上がらないが、綿だの煙草だのなんか特産物があったようだ。ましてや加用(かよ)だの大身(おおみ)だのと言われれば、世の中米だけじゃないんだなと考えさせられる。しかし中世、近世のことには疎いので、本当のことは解らない。
 つづく

【作業日誌 8/9】
草刈り(7-2)
薪割り

今日のじょん:じょん Vs 玉虫
虫には過剰反応を示すじょん君だが、うつくしい玉虫にはどうだろう。初めて見るらしく、遠巻きに観察しているが、ちょっと動くとびっくりしてどうも苦手みたいだ。唸ることも吠えることもないが、腰が引きっぱなしだ。Img_3454 Img_3456
 

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マンガンぱらだいす 考察編(3) 8/8

2011-08-09 | 歴史・民俗

2011.8.8(月)晴

 さてこのマンガン坑、内部はきれいなものだったが予想したよりも浅かった。これはどう考えたらよいのだろう。もちろんそこまで掘り進んだが、鉱脈が切れてしまったということだろうが、マンガン坑とはこういうものなのか、それとも試掘で掘ったものなのか、同行した四人で話し合っていた。Img_3429
 
坑の内部から外を見た写真、天井、壁ともきれいな状態だ。


 試掘ならあんなに大きな穴を掘らないだろうというのが大方の意見であった。確かに坑道は人が立って充分な高さのあるものだし、入口は全て土砂を除いていないが、それ以上の広さがあるものと思われる。日吉のマンガン坑では大きいところで月産100トン~200トン、小さいところでは一人親方の坑で月1~2トンということであった。残されたズリ(鉱屑)は意外と少なく、これだけの坑でそれなりに生産があり、採算もとれたのかと想像するが、素人目にはなんとも判断できない。
  採掘した鉱石だが、ズリの中から黒い金属光沢のあるもの一個、坑道内壁面から数個採取してきたが、果たしてどのようなものか、図鑑とにらめっこしても解らない。Img_3441

右の二つがズリの中から採取したもの。小さいのはかけらである。


 ズリの中から拾ったものは、現地でハンマーで叩くと簡単に割れてしまった。黒光りする金属らしい部分は強い磁性がある。マンガン鉱は磁性があるそうだが、図鑑にあるような色などではなく、他の鉱物かもしれない。磁性といっても金属光沢のある部分のみで、その他の部分ではかなり弱い。村上さんに見せたところ、以前に河原で採取した強磁性の鉱物と同じではないかという意見が出た。なるほど以前に採取したものは風化して角が無くなっているが、似ている感もある。丸くて硬い感じがするが、以前に落としたとき簡単に角が割れたことがあった。同様の鉱物が水流に流れてきたのかもしれない。Img_3053 Img_3469
 
左上のNo.1が上林川で採取したもの。右は今回採取した鉱物。


 坑道の壁から採取したものは磁性もなく、単なる岩石だろう。あれだけの坑道だから鉱石であればたとえ少量でも採っていくはずだ。そろそろ採取した鉱物、岩石の正体を調べる必要が出てきた。
 今回のマンガン坑探索の結論は、鳥垣の奥でかつて鉄の採鉱がなされていたのではないかということである。それはアシ谷という鉄を示す地名によって、マンガン鉱の探索がなされただろうという予測からである。日吉のマンガンを調べていると、最初のマンガン鉱が発見されたのは、佐々江明日ヶ谷岩見鉱山であったと言うことだ。ササも鉄を表す言葉、明日ヶ谷はアシ、アソ、アサの転訛であろうと思われる。浅原(あずら)の天狗岩にマンガン坑があったことも同様である。
 もうひとつの産鉄の要素は、
坂尾呂神社の主祭神が須佐之男尊(すさのおのみこと)であるということだ。スサは鉄のこと、つまり鉄の男ということだ。鳥垣は広大で豊かな耕作地が拡がる地域ではない。鳥垣の数多くの古墳にねむる主は産鉄で勢力を持った渡来人であろうと想像するのである。Img_4171 Img_4172
おわり

坂尾呂神社と小野田橋方面を望む。(2010.4)


 今日のじょん:本日舞鶴が日本一暑くなった。どうやら甲子園だけではないようだ。じょんも暑いぜ。Img_3452  
 

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