2011.8.17(水)曇
「マンガンぱらだいす」田中宇著 風媒社 1995年9月発行 府立図書館で借本
共同通信社の記者である田中氏がなぜ「ぱらだいす」というタイトルにしたのか気になるところである。サブタイトルは「鉱山に生きた朝鮮人たち」となっているのだが、戦前戦中の朝鮮人強制連行などの悲惨な状況を告発した本ではない。鉱山に関する本は沢山読んでいるが、例えば上野英信氏の「廃鉱譜」や「追われゆく鉱夫たち」などの炭鉱ものは内容が悲惨すぎて読み進められないほどだ。「ぱらだいす」と題したことについて田中氏の言はない、それどころか前書きや後書きでの論評もないのだ。
本書の表紙の写真は丹波のマンガン絶頂期の安倍鉱業所の安倍数雄社長を囲んだ記念写真である。経営者も労働者も将にパラダイスであったころの写真なのでは無かろうか。田中氏は本書で差別と貧困に喘ぎ、重労働と労災に苦しんだ朝鮮人労働者の告発を書いたのではなく、天国も地獄も見、自分と朝鮮人同胞の生きてきた証として丹波マンガン記念館を創りあげた李貞鎬(イ・ジョンホ)さんの生き様を他の朝鮮人同胞と合わせて書かれたものではないかと思う。
国道162号線いわゆる周山街道を北上していると、周山の町を過ぎ下中に至る辺りの道路脇に白人のマネキンが着物を着てハンマーを振っている妙な看板があった。地元の人に一体何かと聞いたとき、何か忘れてしまったけど随分批判的な嫌そうな返事があったことを憶えている。迷わずそこに向かった。新聞記事や道具などの展示がなされている事務所があったが、誰もおらず、「こんにちは」と何度も叫んで、ようやく出てきたのは、実は誰だったのか今も憶えていない。山を少し登って坑道に入る。坑道の中はひんやりと冷たくて、例の西洋人のマネキンがあちこちで作業をしている。坑道は充分広いのだが実は見学用に拡げてあったのだ。奥の方の枝坑道(カンザシといわれるものか)はいわゆる狸掘りの跡で人一人が入れるだけの細いものである。下方に進む坑道などはここで人が作業をするのかといぶかるほど不気味なものである。表に出て陽の光を浴びると、そのまぶしさに将に地獄からの生還という感がした。
2006年自転車旅行中には公開されていた。(下中の交差点上から)
坑道から下りてゆくと飯場の跡があり、鉱夫たちの生活を紹介している。ここで朝鮮人労働者の強制連行の説明がされていたかと記憶しているのだが、定かではない。
これがマンガン記念館を訪れたときの記憶である。その後数多くの観光鉱山を訪れたが、丹波マンガン記念館のような趣旨で設立されたものは一つもなかった。そのことは2006年から2007年の旅行記の中でも常に訴えていたことである。日本の経済成長の陰に悲惨な労働者の存在があったことを訴えている施設は一つもなかったということである。つづく
2006.10.14 岩手県の野田玉川鉱山を訪れた。明治38年発見の日本有数のマンガン鉱山だが、今は観光鉱山となり見学や宝石販売など行っている。
今日のじょん:じょんは今日一日留守番をしていたので様子が分からない。帰ってきたら随分喜んで、なんでもいうことをよくきくのがおもしろい。