2012.4.3(火)雨、強風
次の共通点は峠の存在である。これは山稜近くに集落がある場合当然のことかもしれないが行き止まりの集落となっているのではなく、向かうところのある集落、通過点としての集落として存在する意味がある。大成は由良川から大成峠を越えて大原へ、宝尾の場合は日置から日置峠(宝尾峠)を越えて川上へ、あるいは尾根を辿り上林へ通じていた。このことは日本海の文化が河川の流域を遡って遠回りに伝播するよりも早期に、直接的に伝わるという効果がある。そういう文化の通過地点として重要な役割を果たしている。
日置峠(宝尾峠)と大成峠大原側
高地性集落というものが如何なるものか未だ調べていないので想像でしか言えないのだが、必要があってこそ住み着くわけだから、現在の思考で何でまたあのような不自由なところに、、、と考えるのは当たっていない。
丹波の山塊に於ける高地性集落(と言って良いものか解らないが)は標高、遠隔性も知れている。その本場である祖谷渓あたりでは900m程度の高地にしかも怖ろしく狭い道路で繋がった家屋がいくらでもある。実際に平家の落人を名乗る家もあるが、総てがそうなのでは無いだろう。説明では、戦乱を避けての高地住まいと言うことだったが、源平の戦いだけでなく遠く弥生時代の戦乱をもさしているようだ。
祖谷渓(2007.5.8)
瀬戸内周辺ではそういった理由もあるだろうが、丹波などで同じようには考えられない。むしろ水田耕作だけが生活の糧では無く、山の生業、たとえば山林業、木地師、猟師、漆かき、鉱山師など高地に定住する方が仕事がしやすいのだろう。養蚕なども繭の保管は冷涼なところが必要なようで山地が好まれたのかも知れない。
宝尾の場合青周辺に定着した海人族が、森林資源、鉱物資源を求めて日置峠を越えたものだろう。(峠越し文化論)宝尾の仏像等高度な文化は単に山人が住み着いただけの集落とは思えない。
同様に大成は由良川を遡ってきたか、上林の峠を何度も越えた海人族が大原へと大成峠を越えていったのだろう。産屋の残る大原が海人族の文化を伝えていることは間違いない。
大原の産屋。
また、大成と大原神社の氏子は鮭を食さないという風習があるという。(下和知時報、133号、昭和10年10月26日)この風習は福岡県嘉麻市と島根県雲南市の鮭神社の氏子にも共通するということだ。両神社とも葺不合尊、火火出見尊、豐玉姫命が祭神で海人族に由縁のある祭神である。なお、雲南市の鮭神社の旧住所は島根県大原郡大東町川井であり、大原神社は京都府天田郡三和町(川合)大原である。まあこれは偶然のことだろうけど。
いずれにしても、日本海の文化が若丹、丹波の峠を越えて南下していることを示している。つづく
【作業日誌 4/3】
薪割り
今日のじょん:春の不調で痩せたみたい。新しいフードも食いつきが悪いので、体重を測ってみる。なんと17,8Kgだ。1Kg減っている。かみさんは前回は太った太ったと大騒ぎしたが、今度は痩せた痩せたと心配している。ままならんね。
時々ぼーっとする癖がある。