2012.4.6(金)曇、雨
大原神社の縁起によると、仁寿二年(八五二年)三月二十三日、桑田郡野々村(現
南丹市美山町樫原)に鎮座していた大原神社が、弘安二年(一二七九年)九月二十八日大原に遷座したということだ。この期日が春指、秋指の祭礼の日となったようである。樫原には大原谷という地名も残り、大原神社も存在している。大原では樫原の大原神社を「元社」(もとやしろ)と呼び、安永のころ(一七七二~八一)には樫原から神主が祭礼に参与したとある。(福知山市史第一巻)
なぜ美山町の樫原から遷座したのか、一体どのような形で、どのような経路を通って大原に来たのか知りたいところだが、手元の資料では解らない。いつものように逞しい想像力でげすの勘ぐりを始めるのだが、わたしはこの遷座伝説の意味するものは、由良川流域から大原への古代の人民の流入ではないかと思う。
樫原と塩谷をむすぶ熊坂峠附近にあったという道標、通る人が少なくても元の位置に置いて欲しい。大野ダムの駐車場にある。
わたしの提唱する峠越し文化論では、若狭湾岸に上陸した海人族の本体は耕作地を拡大しながら由良川などの大河川流域を遡行し、別働隊、先発隊的な部分が直接峠を越え文化を伝搬したとしている。こういう民族が樫原から大原に移入したとしたら、それは峠を越えてきた民ではないだろうか。なぜなら由良川を遡ってきた民なら、綾部や和知方面から大原に入るだろう。樫原まで遡って定着した後、また由良川を下り山越をするとは考えにくいのである。従って樫原周辺に最初に住み着いた民は、若狭湾から猪鼻峠、菅坂峠などから上林谷に入り、大栗峠や大岩、草壁からの峠道を辿り仏主(ほどす)へ、そして長老ヶ岳周辺の仏主峠か上和知川から辿り着いたのでは無いだろうか。樫原周辺にある音海、乙見という地名は海人族に由縁の地名と思われる。
大野ダムが出来てかつての街道が定かでは無いが、このあたりは由良川を遡り宮脇へ、あるいは肱谷川を遡り鏡峠から胡麻へ、肱谷坂から海老谷、四ッ谷へと交通の要所でもある。
樫原から大原に向かうとしたら大成峠よりも大簾峠かなと思うのだが、大簾(おおみす)には京都縦貫道が建設されるそうである。それまでにこの辺りを歩いておこう。
【作業日誌 4/6】
溝さらえ
九輪草播種
芝張り準備
溝は50m、四年目に初めて溝さらえをする。夏になると草が茂って出来なくなる。
今日のじょん:タイヤ交換、洗車、薪拾い、薪割り、溝さらえ、丸太塗装など盛りだくさんの予定を組みながら、生憎の雨でイライラして過ごす。昨日はかみさんが不在でしょぼんと過ごしたじょんは今日はおとーもおかーも家に居るので安心して寝て過ごしている。