2010.2.12(金)雨
ドッグランどの建設を始めようと準備した途端に雨続きで仕事にならない。椎茸の猿除けネットも張らなければならないし、イライラがつのる毎日だ。世間ではバンクーバオリンピックで持ちきりである。現地では雪不足とかで大変そうだが、フィギアなど楽しみである。
冬季オリンピックとなるとどこかで話題が出るのが猪谷千春氏で、冬季五輪の日本人初の銀メダリストと言うことである。それも男子回転種目だから凄いことである。1956年のことだから、知らない人も多く、コルティナダンペッツォなんて一体どこの国かい?なんて調子である。イタリアの国であり、その時金メダルを取ったのがトニーザイラーである。白銀は招くよという歌が流行ったことがあり、わたしは歌手かなあと思っていた。
猪谷氏はトライアスロン連合の会長をされていたことがあり、(現在は名誉会長)何度かご一緒させていただいたことがあった。関空で日本初のワールドカップが開催されたとき、酒席で銀メダル獲得の時の裏話を聞かされた。実は2位のタイムでゴールしたが、旗門の通過についてクレームが出たということだった。げすの勘ぐりをするなら、日本人が好タイムで滑るはずがないという意識があったのだろうか。審議の結果、その時の審判員がきっぱりと旗門は正式に通過していると発言され、無事に日本初のメダルを獲得したということである。
スキー競技に歴史のない日本がなぜメダルを獲得できたかと言うことになると、それは千春氏の父親六合雄氏の独特な英才教育の賜であると思う。樺太に始まり、北海道や信州、雪のあるところを求めて、自ら小屋を建て、ゲレンデをつくり訓練してこられた様子は六合雄氏の著書「雪に生きる」に詳しい。乗鞍高原の番所にあるいがやスキー場はその名残である。それは用具や設備が潤沢にある現在では考えられない方法である。六合雄氏は何でも自分で作られ、家から生活用具、ジャンプ台やゲレンデなども総て手作りでなされている。スキーを離れても、セルフビルド、自給自足の神様のようだ。
実はわたしも猪谷六合雄氏にスキーを習った一人なのだ。「雪に生きる」と「雪に生きた八〇年」はその際に購入したものであり、戸隠の吹雪の夜にサインを頂に上がったのを憶えている。つづく
1976年と1977年のサインが裏表紙にある。わたしが25才、26才の時である。
今日のじょん:じょんの宝物はじょんのび村に来たときに持参したゴジラとクッションである。どちらもいつも一緒にいるのでとても大事にしている。クッションは当時のまま原型を保っているが、ゴジラはさすがに手が取れ目が取れ、はらわたを引っ張りだして原型を保っていない。ぺっちゃんこになっても一番のお友だちである。気の毒なのはゴジラ君だ。