晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 九州の先住民はアイヌ(1) 8/15

2010-08-16 | 歴史・民俗

2010.8.15(日)晴

 この夏は暑くて日中の仕事が出来ないので読書が進んだ。アイヌ語地名に関する2冊目の本である。
「九州の先住民はアイヌ」根中 治著、葦書房、1983年発行、1、500円、購入価格500円。
 根中氏は、九電研究所で地熱や温泉、天然ガスなどの地質関係の研究をされている技術者である。その関係で九州各地をまわられ地質の調査をしている間に遺跡や古代地名に関心を持ち、考古や古代史に興味を持たれたようだ。氏は福岡市郊外で奇妙な地名に興味を持たれ、それがアイヌ語地名であったということで研究を進められた。米冠(シリカンベ)、下代久事(ケタイクジ)、釣垂(ツタル)、牛頸(ウシクビ)、背振(セブリ)、内河(ナイカ)、平尾(ヒラオ)等々がその地名なのだが、2007年4月6日、私は自転車旅行で吉野ヶ里から東背振トンネルを越え那珂川沿いに博多まで下った。筑紫平野から博多湾に到る地域が古代の重要な位置を占めることは周知のことである。吉野ヶ里から博多に抜けるこの背振山の東の坂本峠を越えるルートも重要なルートのひとつであっただろう。ところが自転車旅行の際は峠の急登に加えて雨模様となり、有料道路の東背振トンネルが自転車通行可能なのかという不安ばかりで何も考える余裕がなかった。トンネルは無事に通過できたが、那珂川沿いの下り道はとにかく走ることで必死だった。写真も東背振トンネルの次は博多の宿の写真となっている。もし、現在の知識があったならこのルートでもう一泊をし、じっくりと古代のロマンを味わったかもしれない。ただ、背振山という地名だけは、変わった地名でもあるし、どのような意味があるのだろうかと考えていた。そしてもう一つ、九州の鳥居はなんでこう短いのかと考えていた。これは未だに謎である。Img_3996 Img_3999
 
この鳥居は高い方で、中には背より低いものもある。
右は東背振山トンネル。


 さて今、3年前に辿った道を地図で追いかけると、あるわあるわ、上記の地名の他にも埋金、や別所など金属地名らしきものもあって興味深い。米冠(シリカンベ)は地図上で見つからなかった地名だが、文中で山田のあたりと書いてあり、冠ヶ丘団地という造成地があるのだがその辺りかもしれない。氏は(siri-kampe)、海際の山、水面に浮かぶ丘とアイヌ語で比定している。確定は出来ないが、国土地理院の地図で安徳と書いてあるところが、その山なのだろうか。氏は縄文海進の時代には、その辺りの那珂川流域はちょうど汀線であったといわれている。近隣で暖海性の貝殻なども発見されており、海がこのあたりまで進入していたことが解る。つづく

【作業日誌 8/15】
草刈り7回目続き

今日のじょん:いくみちゃんが帰るとなると態度が変、気配がわかるのかなあ。一緒にバス停まで送っていって、帰ってきたら後はふぬけになってしまった。Img_1202 Img_1203 Img_1207

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上林お盆事情 8/14

2010-08-14 | 日記・エッセイ・コラム

2010.8.14(土)曇、雨

 私が小さい頃、田舎に住んでいるとお盆というのは一大行事であった。お墓や家の周りの掃除をして、都会に出ている家族が子供たちを連れて帰ってくる。13日から仏壇にお供え物や、ナスで作った馬の人形などをこしらえて供える。お坊さんが一軒一軒お詣りに来られる。家のものは毎晩お詣りして、般若心経などを読経する。お墓は毎日お詣りして仏花や線香をお供えし、夕にはお灯明を灯す。16日にはお供え物などを川に流して仏様を見送る。都会から帰省している人達がみんな帰って、元の静かな生活となる。子供心にとても淋しい感じがした。
 都会からこの地に来た私たちにはこのようなお盆はない。墓もなければ、仏壇もない。お客さまはあっても、特段お盆だからというものではない。でも地元の家々はそうではなく、私の子供の頃のお盆が続いているのだろう。13日あたりから府道の交通量は俄然増える、いつものように軽トラや業務用の車ではなくて、よく掃除の行き届いたおしゃれな乗用車が増える。子供たちのはしゃぐ様子が見とれ、帰省の車だというのがよく解る。迎える方は、一週間ほど前から草刈り、家の周りやお墓の掃除などをし、スーパーは買い物で賑わう。昔と変わらないお盆を迎える姿だ。仏壇の様子などがどうなっているのか解らないが、いつか尋ねてみようと思う。
 変わったのが盆踊りが無いことだ。私の故郷でも子供の頃は各地区で盆踊りがあった。練習するわけでもないのに、上手に太鼓を叩き、だれもが上手に踊っていた。そこでは福知山音頭を踊っていたのだが、元々綾部藩の領地であったその地で福知山音頭を踊るのは不思議に思っている。
 「丹波の話」では綾部でも上林でもその地の踊りがあったように書いている。しかし上林のどこそこで踊っているなんてのは聞いたことがない。
 その代わりと言ってはなんだが、各自治会で納涼祭をやっている。各自治会で工夫を凝らして、バーベQやビヤガーデンを催している。一区では屋台を開き、生バンド、カラオケ大会、ビンゴゲーム、花火大会などで盛り上がっている。カフェじょんのびは、日頃のお礼と宣伝を兼ねて出店している。生バンドは地元のおやじバンドに加えて昨年からジュニアバンド「無限」が参加しており、とっても楽しみだ。花火も自前で上げられる中では大規模なもので、結構楽しめる。Img_1200
 
無限がんばれ。


 来年も同様に開催する旨挨拶があったが、そろそろどこかで盆踊りの復活を言い出す自治会が出ないかなと思っている。そうしないと踊りも歌も忘れ去られてしまうぞ。

今日のじょん:じょんも欠かさず納涼祭には参加している。地元の人にじょん君じょん君と人気があるのは嬉しいが、慣れない人混みに相当疲れているようだ。Img_1199

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遊里のこと(15) 8/13

2010-08-13 | 歴史・民俗

2010.8.13(金)曇

 ユリについては柳田国男氏の説が圧倒的で、他の説が見あたらないのだが、今のところ唯一別の説は「古地名の謎」(畑中友次著)で由良、五十村(いうら)の語源としてアイヌ語説を書いておられる。
 まず香川県山田郡(現高松市由良町)の由良神社は由良山の麓にあって海辺ではないと主張されているが、縄文海進、弥生海進時には汀線であったと見て良いのでは無かろうか。また、群馬県新田郡宝泉村由良(現太田市由良町)も平原であり、海岸沿いではないと書かれている。確かにこの地は汀線であったとは言えない。ただし利根川と渡良瀬川の中間にあり、それらの流域、或いは大きな沼であったと想像できる。東側に低い山稜があり、この麓に拡がった地域と考えられる。この地は近隣に金山町、別所、多々良などの地名があり、東光寺、金井稲荷神社などもあって、古代の製鉄地と考えられる。Img_1751

2006.11.15、自転車旅行では太田市辺りの混雑を避け、渡良瀬川の自転車道を走った。正面は赤城の連山。


 氏は
「Iwor(一人称)Iwori(三人称)イうオル、神々の住む世界、具体的には狩りや漁場としての山や海を語源としている。これによると由良、由理の関係も解ってきて由良は漁場、由利、由理はその漁場の意となる。」と記している。どうして、由良を一人称で由利を三人称で呼ぶのかまったく理解できない。要するに氏のアイヌ語地名考は単なる語呂合わせとしか思えない。
 由良については和歌山県日高郡と兵庫県津名郡(現洲本市)の由良をあげておられるが、何れも海岸沿いで或いは湾内で、波
の作用で広げられた地形という柳田説に合致するところである。前者には恵美寿神社が在り、後者には戎神社が在るのが気になる。漁場として見るのではなく、本来の意味、神々の住む場所と言う意味があるのだろうか。
 五十村(いうら)という地名は現在消えている。南河内郡国分と書いてあったので柏原市の郷土資料館に電話して聞いてみる。現在は開発が進み旭ヶ丘という地名になっている。由緒ある地名が消えてつまらない地名となっているのは淋しいが、五十村廃寺という遺跡が残っているそうだ。応神天皇陵の東方にあり、伯太彦神社を祀る玉手山丘陵の麓辺りをいうそうだ。畑中氏は
「国分より竹内街道に出る道に五十村峠あり、之も由良と同じで、ここは山の狩り場の意であろう」と書いておられる。
確かに海から離れた場所ではあるが、古事記にある神武東征の上陸地点日下の地は、五十村の北にある。つまり、弥生海進の時代にはこの地は汀線であったと考えられる。畑中氏はアイヌ語地名について10数年研究されたと言われているが、アイヌ(私は原日本人と考えている)が各地に居住していたと思われる時代の地形について考慮されていないようだ。これは地名研究について大きな欠陥となっているのだが、それでもって氏の著書が意味がないということではない。50年以上過去の研究は情報も、学会等の研究成果も現在とは雲泥の差である。手探りの状態でこれだけの書物をまとめ上げられた努力は並大抵のものではないだろう。ユリ、ユラについては同意できなかったが、他の仮説には傾聴すべきものがあり、今後も本書を参考書として使わせていただくつもりである。

【作業日誌 8/13】
どぶ板一枚完成
茗荷収穫、ちと遅すぎた。

今日のじょん:いくみちゃんが来て大喜び。Img_1193 Img_1194

うれぴー。

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芝生物語(洋芝) 8/12

2010-08-13 | 日記・エッセイ・コラム

2010.8.12(木)雨、曇

 台風一過、爽やかに晴れ上がると思いきや、ぐずぐずと雨が降り続き、時折晴れて妙に蒸し暑くなったりなんともすっきりしない台風であった。明日は下鴨神社糺の森で行われる古本まつりに参加すべく目録を取り寄せて準備していたのだが、縦貫道の渋滞状況がかなりひどいということで中止する。知恩寺で行われる秋の古本まつりに期待することとする。最もネット販売の進展により、欲しい本が簡単に探せられ、より安く購入することが出来るのだが、書架を眺め、手にとって購入できるのは古本市の魅力である。
 さてじょんのび村の芝生たちは昨日からの雨で一息入れている。晴天が続き、ホースやスプリンクラーで散水するも、水は表面を流れたり、乾いた土を申し訳程度に湿らす程度であった。自然の雨が如何に芝や植物たちに恵みとなっているかは、雨後の様子でよく解る。彼らはしゃべらないけれど、「あー生き返ったわ」と言っているのだ。問題は昨秋に播種をした洋芝である。予想以上によく繁茂したが、夏場の雑草と炎天には勝てなかった。Img_1117 Img_1120
 7月末の西、北芝生の状況。あおいのは雑草ばかりである。


 洋芝は駐車場入り口左、ウェストグラスと家屋北側のノースグラスの2ヶ所である。合わせて15坪ぐらいだが、タキイのムーンライトSLTを1Kg、2回に分けて播種したものである。播種床となる土壌の処理はほとんど無しで、すこし真砂土を入れただけである。発芽はなかなか困難だったが、春にはびっしりと育ちはじめ、きれいなグリーンが育っていたのだが、夏になって困ってしまった。稲科の雑草がはびこってとても対応できない。刈り取りと同時に刈払い機で草刈りをするだけで、とても草引きなんて余裕がない。おまけにこの猛暑で庭中がカラカラになる。暑さに弱い洋芝は見る間に茶色く変色してしまった。それでも朝の内榎木の蔭となるノースグラスだけは緑が残っている。暑さが去って雑草の勢いもなくなった頃、茶色の枯れ芝の間から、新しい芽が出てくるようならしめたものだけど、駄目だったら今度は高麗芝にしよう。Img_1178_2

ノースグラスはまだ緑が残っている。


 先日スジキリヨトウの駆除をした玄関先の芝は、その後水遣りもしっかりして、新しい芝が生えてきた。やはりここの芝は例年のヨトウ対策が必要なようだ。

【作業日誌 8/12】
どぶ板作り

今日のじょん:久々に合羽着せたらすっかりいじけてしまった。うんPはせーへんし、帰ってきてもハンガーストだし、見てくれこのいじいじじょん。Img_1190_2

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漢字は輸入品 8/11

2010-08-11 | 歴史・民俗

2010.8.11(水)曇

 台風4号が日本海を通過するということで、朝から風が強い。涼しくなるといいのだが、時期が早すぎてまだまだ暑さは続くだろう。それよりも風対策に物を片付けたり、庭木の補強をしたり結構大変である。
 今日の讀賣新聞の文化面に漢字文字入りの土器の話題が掲載されていた。福岡県糸島市で発見された3世紀前半から中頃の線刻土器という物だそうだ。その壺に文字らしきものが彫り込んであり、従来の説では「竟」と見られていたそうだ。鏡の異体字とされていたものだが、大阪芸大の久米教授が「和口」と読むことを提唱されたという記事である。和という字は偏と旁が逆になっており、こういう使い方は現在でもあるそうだ。口というのは神への誓約を入れる器ということで、その壺には和平を結ぶという意味があったのではないかと言われている。邪馬台国の時代に伊都国の中心地で発見されたこの壺が和平の壺とは、なんともできすぎの感があるが、私は全然別のところで疑問を持っていた。Img_1189
 それは自転車旅行中、山口大学の埋文資料館を訪れた際に少し記事に書いている。(2006.4.11参照)3世紀には農耕技術、用具、人材など多くのものが大陸や半島から流入して、器用な日本人はそれらをうまく取り込み、従来よりも格段の発達をみたわけだ。ところが漢字だけは同じ時期に到達したにも関わらず、5,6世紀ごろまで本格使用されていないことが疑問であった。もしその当時に漢字の使用がなされていたら、空白の世紀は明らかにされていただろうし、邪馬台国の所在とか、神武東遷や建国の歴史など明白となっているだろう。
 縄文人や弥生人は文字は持たなかったけれど言葉はあったわけで、それが原日本語だろうと思うのだけど、その言葉に文字の必要性は無かったのではないだろうか。吉野ヶ里の遺跡は確かに広い、広いけれどあの範囲内で祈りや生産をして生活する分には話し言葉だけで充分で文字による伝達や記録は必要がなさそうだ。Img_3992

吉野ヶ里遺跡


  その当時大陸では国家組織が出来ており、海外に使節を送ろうかという組織だから文字は不可欠である。従って日本でも国家組織が出来あがり、徴税もし、そのための戸籍も作ろうかと言うことになると文字が必要になってくる。とまあそんなところではないだろうか。農耕技術は重要な必要性があったけれど、漢字は当面必要性がなかったのだろう。

今日のじょん:動物病院に行くとよく他のお客さんに「なんですかそれ?」といわれることがある。「これ、ろうそうですよ」「えっそれってなんですか?」「狼爪、この子は狼なんですよ」「え゛~????」Img_1167

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健康診断 8/10

2010-08-10 | 日記・エッセイ・コラム

2010.8.10(火)曇、雨

 恒例の定期健康診断に行く。サラリーマン時代には会社が自動的にやってくれるので当たり前という感じだが、国保になると受けて居ない人も多いようだ。40才を過ぎてからは定期健康診断だけでは信頼が無くて、人間ドッグも受けていた。最初は数千円の負担で受けていたが、最後には2万円程度の負担となっていた。ところがその年齢ではたいした異常も出ないのだ。身体のあちこちにガタがくるこの年齢になると、今度は受検料が払えなくて受けることが出来なくなる。なんという矛盾だろう。
 やむなくオプションで受けられるだけの検査、例えば肺がん検診、大腸がん検診などをすべて受けるが、人間ドッグほどの精度はなさそうだ。
 いずれにしても各種の数値が徐々に悪化してゆくのは恐怖でもある。生老病死は人間の四大苦なんだが、生と老、死はいかんともしがたい現象なので諦めもつく。ところが病というのは予防もできるし治療もできるので複雑だ。痛い痒いもつらいものだが、治療や入院にお金がかかるのもつらいものだ。有名人の病気を見ていると、駄目なものは駄目だけど、金に飽かして治ってるなあというものもある。お金で命を買える時代なのだ。貧乏人のせめてもの救いは永遠の命は買えないことだ。
 帰りがけにメーの様子を見に行く、久しく見ていないので元気しているか心配していたところである。元気にしていたので安心した。
 ところで今日十日はは金刀比羅さんの祭日である。折角だからお詣りする、秋の大祭にはお詣りしているのだが、月参りは初めてである。講元の木下さん宅では祭壇を整え、周囲もきれいにしてお迎えをしておられる。「あと3ヶ月大変ですねえ」とあいさつをしてお詣りをして後にする。今年の大祭は11月の7日とか、次は忠町に講元がうつる。Img_1182 Img_1185

講元では祭壇を作ってお詣りを迎える。
佃から忠方面、雄大な眺めだ。


今日のじょん:今日はこの夏2回目の夕立が来た。雷も一級品で怖ろしく大きな音のが二発、どこかで落ちてそうだ。丁度その時、じょんはオシッコしに表に出ていたんだけど全然怖がらない、これって不思議なくらいだ。Img_1175

スプリンクラーにはじょんも大喜び。

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遊里のこと(14) 8/9

2010-08-10 | 歴史・民俗

2010.8.9(月)晴

 綾部界隈のユリを訪ねているところだが、是非訪ねてみたいユリが3ヶ所ある。於与岐町のユリ上ノ岼、上八田町のユリノ上、ユリノ下、そして星原町の岼蔭、岼﨑である。於与岐のユリの上にある岼とはどのようなところか、上八田のユリは何を指しているのか、星原の岼蔭、岼﨑の岼は一体何を指しているのかこの目で確認したいとおもうのである。前者2ヶ所は角川日本地名大辞典にその名があるが、インターネットの地図では場所が確定できないので、地元で聞いて行く必要がある。星原町の岼については地形図などでも確認できるのだが、岼が一体何を指しているのかは判断できない。国語辞典で﨑を調べると、突き出た山の先端とあり、蔭とはそのもののために光や風が遮られるところとある。航空写真で見ると南西からユリに突き出た尾根の先端に岼﨑があり、尾根の北西側の谷間に岼蔭がある。するとここでいう岼は南西からの尾根に当たる。この尾根或いは山がユリ山という地名なら、ずばりそれを指すのだと思うが、残念ながらそういう地名は付いていない。でも山には必ず名前が付いているだろうから、現地で聞いてみよう。
 などと思いを馳せていると、またしても疑問が沸いてきた。ユリ地形もユリ道も理解できるのだが、ユリ山とは如何なるものだろう。七百石町にはユリ山、小貝町には岼山がある。どちらも山を指しているが、普通の山である。七百石町のユリ山は綾部JCTの西にある小山でその西がユリ地形となっており、南に下がったところにユリノ下がある。小貝町の岼山は由良川と犀川の出合いから犀川を400mほど遡った右岸にあり、岼、岼上通と三点セットの地名となっている。このように中流域のユリは山間部と違って、川の片岸に土砂の堆積でできた平地をいうらしい。その地が岼、岼の上の通りが岼上通と解りやすい。ただ、岼山はゆりあげられた山をいうのか、岼の近くにある山をいうのか、ユリ道がある山をいうのか、あるいはその他の理由か判断できない。意外と現地で聞いたら「~~やがな」と簡単に解るかもしれない。Img_4561 Img_4562

小貝町岼山と岼上通、岼はこの右手か。


 由良川沿いのユリは鷹栖町遊里、里町岼、位田町岼、そして小貝町岼とあるのだが、すべて山際の少し高台、割合狭いところにある。勿論流路が変遷しているので一概には言えないが、流路の安定しない川筋の平地は時代が下がってからの居住地と思われるので、ユリは古い時代の居住地だと想像できる。
 今ひとつ想像だが、ユリとユリ山はセットになっているのではと思っている。綾部市でしっかり地名がセットで残っているのは七百石と小貝だけであるが、その他のユリについても必ず背後に山があるのだ。
 これは語源がユリ地形によるものか解らないのだが、和歌山県紀ノ川市に百合山という山がある。遊歩道や駐車場、新四国八十八ヶ所なども作られて市民に親しまれている山だが、その麓紀ノ川沿いに百合というところがある。ただし百合という住所は見あたらず、百合公民館があるので小字であるのかも知れない。424号線が紀ノ川を渡る手前の地点で、百合山はその南にある。自転車旅行の際は県道13号を紀ノ川沿いに進んだが、今ならちょっと寄り道しているだろう。この百合と百合山は典型的なセットになっているが、その地名、山名がユリに由来するか否かは定かでないが、偶然なら出来すぎのセットである。つづく
(遊里のこと(13)は2010.8.7)Img_2266

この右手手前に百合山がある。


【作業日誌 8/9】
らっきょう植え付け、干しておいた玉を10本余り植え付ける。
秋ナス準備、根切り、剪定して根の部分に追肥する。
キュウリ、後片付け

今日のじょん:じょん語録(53)すごすご
すごすごという言葉がある。ぽんぽこぽんが終わってけーとくちんをするとき、「こっちおいで」といっても聞こえないふりをする。「こんかい」と怒鳴ると本当にいやそーにのそのそと歩いてくる。これを我が家ではすごすごと呼んでいる。Img_1178 Img_1179
 

静止画像じゃあわかんねえか。

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雨読 蛇 8/8

2010-08-09 | 雨読

2010.8.8(日) 晴

 「蛇」日本の蛇信仰(吉野裕子著)講談社学術文庫、定価960円、購入価700円。Img_1174
人はなぜ蛇を嫌うのか、不思議な現象である。もちろん例外もあり、蛇が好きで堪らないという御仁もおられるわけだが、概ねの者は蛇が嫌いである。蛇のせいでエデンの園を追われたという、キリスト教の影響のある者なら解るけれど、そうでない人も大方の日本人は蛇を嫌う。それは足の退化したあの異様な姿態、鱗、そしていつも睨まれているような眼が多大にその理由となっているようだ。そして毒を持つ蛇が居るということが余計に嫌われる理由となっているのだろう。
 ところが古代にはその蛇が敬われ、尊ばれ、信仰の対象となっていて、様々なものに形を変え今日にも至っているのである。鏡、案山子、鏡餅、注連縄など常識となっているものもあれば、えっと驚くようなものもある。
 縄文時代における蛇信仰の始まりは、蛇の姿が男根を思わせ、その交尾の強烈さから生命力の存在を認めたからだろう。縄文期の信仰対象として多く残る石棒も蛇体神としている。弥生時代になると農耕が始まり、蛇の生命力、繁殖力が稲の収穫への祈りと重なり、田畑における鼠などの天敵としての蛇を崇めたとも考えられる。Img_1274
東北地方の男根信仰も石棒から連なる蛇信仰なのだろうか。遠野。

 吉野氏の論考は単刀直入であるがために、読者をしてえっと思わせるところがある。なぜそうなるかという論理的な解説が端折られているのだ。たとえば沖縄などでは蒲葵(びろう)が神聖なものとして宗教的な儀式等によく使われるのだが、それは蛇に見立てられて信仰されているというのだ。理由は男根に似ているからと記されているが、猜疑心の強い私にはそれだけでは納得できない。
諏訪大社の神紋梶の字が木と尾に分かれるので、蛇を表すというのもにわかに納得できるものではない。
 ミシャグチ神として諏訪大社の神事などが取りあげられている。吉野氏は諏訪大社の祭神、縁起、神事などについて蛇との関わりを強調されている。確かに元旦の蛙狩神事など蛇を連想させるものもある。ところが以前に紹介した「古代の鉄と神々」(2009.12.15参照)でも同じ神社、神事などを取りあげているが、ここでは金属、特に鉄との関連で説いておられる。たとえば藤は吉野氏はその蔓の様子から蛇を表すと言われるし、真弓氏は鉄穴流しに使う植物としてとらえている。神事に使われるサナギの鈴も吉野氏は、サは小さい、ナギは蛇の古語、従って小蛇と解され、鈴は蛇が興奮した際に尻尾を震わせて音を立てる動作を象徴しているのではとしている。真弓氏はサナギは鉄鐸で、鈴は褐鉄鋼が水生植物の根に付着した、古代の鉄の原石と推理している。両者には共通する意見も妥協点も無い。あえて無視をしている感さえ浮かんでくる。吉野氏の方が後年の出版なので無視をするとしたら彼女の方なのだが、、、、。丁度「古代の鉄と神々」と「知られざる古代 謎の北緯三四度三二分をゆく」(2010.1.10~12参照)と同様の関係だ。
 蛇と金属は百足同様大変関係が深い、「蛇」の中で金属との関連を少しでも書いて欲しかった。
 ミシャグチ神でかつて通勤でいつも通っていた町名を思い出した。中京区東洞院六角辺りで、御射山町という山鉾町である。地名事典で調べるとかつては諏訪町と呼ばれていたそうで諏訪神社もあったそうである。妙なところで関連があるものだと思うが、まったくの蛇足である。

今日のじょん:朝クンクンというのは「おしっこしたいよー」という合図だそうだ。放っておくと膀胱炎になったりするそうだから、何をさておいても連れてってやるか。Img_1169

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遊里のこと(13) 8/7

2010-08-08 | 歴史・民俗

2010.8.7(土)

 ”ユリ”地名が丹波特有の地名であるせいか、各種地名に関する本に出てくることが少ない。”ユリ”地名探索の発端となった「丹波の話」(磯貝 勇著)には次のように述べられている。
 
(前文略)山中に限らず海岸でも、水の動揺によって平坦になった地形をユラ、ユリという例はわが国には多い。ユラグ、ユスルという言葉につながる呼名であるとせられている。この地方のユリも勿論この例であって、前記の土地を調べてみても何れも川岸か、或は、かつての川岸で、水の力で形成された特殊の地形であることに変りない。ただ丹波地方でいうユリと呼ぶ土地は一方が川、一方が山で比較的さびしい土地であるらしい。(後文略)
Img_4298  ユリ地形では片側に道があり、その反対側に川があり、両側は山となる場合がほとんどである。

 ここで氏が語っている由来は恐らく 柳田国男氏の説を踏襲しておられると思うが、両氏とも水の作用によってできた平地をユリと呼んでいる。前回分類した(1)山間の谷沿いに開けた地形(2)大きな川の片岸に開けた地形はこれに該当し、例も圧倒的に多く、最も典型的なユリといえよう。ところが(3)山間の狭道は、この説とは無縁である。付記した尾根のトラバース道(三和町史にある阻伝いの道とはこれであろうか)については、上り下りを平坦にしたという意味で柳田説を拡大解釈する事も出来る。丹波地方の方言と言われるユリ、山間の狭道だけが、柳田説に合致しないのは他に全然別の由来があるのかと思わせる。
 ここで道に関して少し考察してみたい。
ユリ地名にはユリノ上、ユリノ下、由里ヶ前、向由里など方向や位置を示す形容詞が付いているものが多い。それらが何を指しているかということは興味深いことである。例えば五泉町の遊里詰などは畑口川沿いのユリの詰めにあることがわかる。五津合町遊里の上遊里、下遊里は遊里という集落の上と下を表すか、街道の山側、川側を表しているようだ。この畑口川沿いのユリ地形は於与岐と共に最もユリ地形らしいユリだ。この大きなユリ地形の上と下を表しているのではない。菅坂に向かうその街道を上ってゆくと、ユリ道、ユリ下という小字がある。従ってここでいうユリは道を指しているのではないだろうか。本来はユリ道ノ上、ユリ道ノ下と呼ぶべきところを端折ってユリノ上などと呼んでいるのかもしれない。Img_4299
 
畑口川から左手に下遊里、上遊里を望む。


 同様の例が老富町にある。小唐内と市茅野の間、府道一号線を挟んで遊里ノ上と遊里ノ下がある。これもユリ地形の上下というより、道を挟んでの上下のようだ。つまりこれらの”ユリ”こそ丹波の方言といわれる山の狭道、阻道を表す”ユリ”なのではないだろうか。ではこれらの道を表す”ユリ”が柳田先生の言われる本来の山間部の平坦地と無縁かというとそうでなく、山間部の平坦地の片側の山裾を走る道であり、ユリの端を走る道=ユリ道=ユリという関係ではないだろうか。つづく(遊里のこと(12)は2010.8.6)

【作業日誌 8/7】
薪割り

今日のじょん:立秋の今日からなぜか朝が涼しくなってきた。朝散歩を再開しようと思ったが、陽の当たるところはやっぱり暑い。と言うわけでぽんぽこぽんとぽんぽこジャンプでお茶を濁す。気温が下がると食欲も出る、へたな天気予報より気候の変化がよくわかる。Img_1173


 
 
 
 

 

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遊里のこと(12) 8/6

2010-08-06 | 歴史・民俗

2010.8.6(金)快晴

 難解地名”ユリ”について最も一般的に語られているのは、柳田国男氏の説である。著書「地名の研究」の冒頭部分、地名の話の中に次のように書かれている。
水の動揺によって平らげられた岸の平地を由良とか由利とかいっている。すなわちユラグ・ユルなどという言葉が転じたのである。
 ”ユリ”の地名については、アイヌ地名説を除いてこの説がすべてで、他の説を見たことはない。私の”ユリ”=”揺り、淘り、汰り”説(2010.4.27)も淘汰のもとはユラグ、ユルという言葉だろうから、実は同じことをいっているのだろう。ただ、”ユリ”地名を調べていて、疑問に感じるところがいくつか出てきた。
 海岸に見られる由良は別として、”ゆり”といえどもいくつかの形態の地勢があり、同一でないことだ。綾部周辺の”ユリ”で見る限り3っつぐらいに分かれると思う。
(1)山間の谷沿いに開けた地形(於与岐町ユリ、七百石町由里など)
(2)大きな川の片岸に開けた地形(里町岼、小貝町岼など)
(3)山間の狭道(老富町遊里の上、遊里ノ下など)
 これらが別々のものか、ひょっとしたら根は一緒のものかもしれない。
Img_4485  
七百石町由里、ユリらしい地形だ。

 

以上の他、遊里のこと(3)(2010.4.17)で述べたように、尾根上のへつり道のように上り下りを無くした緩やかな道をユリ道という。これは綾部の地名に例を見つけていないのだが、子供の時から普通名詞として使われていたのを憶えている。北山の二ノ瀬ユリはMTBで下ったことがあるが、将にそのような道であった。

 今ひとつの疑問は、”ユリ”地名が全国版でないこと。もう少し調べてみないと解らないことだが、どうも丹波地方に偏っているようだ。もし、柳田氏の説であるならば全国的に拡がっていても良いのではないか。なお全国方言辞典(東條操編)では、ゆり、山の狭道 丹波(丹波通辞)とある。山の狭道なら水の動揺によって平らげられた云々というのは該当しないし、ユリが山の狭道だけを意味していないのも疑問が拡がる原因である。

 簡単に結論が出るだろうと高を括っていた”ユリ”地名がここまで混沌とするとは思わなかった。引地同様相当な調査と考察が要求されそうだ。当面近隣の”ユリ”を見て歩くこと、京都府における”ユリ”地名をリストアップすること、全国の”ユリ”地名を探すことをやってみたい。つづく(遊里のこと(11)は2010.8.4)

今日のじょん:じょんはアレルギー体質なのか、神経質なのか、とにかくカイカイばかりしている。毎日2回ブラッシングし、毛抜けのシーズンにはファーミネーターしているのだが、やっぱり痒いみたい。蚊やブヨが多いのも影響しそうだと、薫製になるほど蚊取り線香を焚いている。ぽんぽこぽんの最中でもカイカイが最優先。Img_1161


 



 

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じょんのびファーム報告 8/5

2010-08-06 | 日記・エッセイ・コラム

2010.8.5(木)晴

 猛暑の中にも涼を見つけるのが風情というものだろう。虫の声、朝夕の涼風、長い影、空の色少しずつ秋は近づいているのだが、とりあえずお盆を過ぎないと涼しくはならないだろう。それにしても不思議に思うことは夕立が無いことだ。確か子供の頃は午後の四時頃ともなれば空は真っ黒になり、バケツをひっくり返したような夕立がきた。怖ろしいほどの雷鳴が轟き、落雷もあちこちであったようだ。夕立三日と言って連日夕立があった。温暖化だの異常気象だの騒がれているが、夕立が減っている、あるいは無くなっているのは解せないことだ。むしろ増えても良いのじゃないか。
 そんなわけで今年の野菜作りは大変だ。朝な夕なの水遣りに手間も労力もかかるし畑仕事や草引きも暑くてやってられない。夕方の一時間ほどが勝負だが、この頃はブヨが出てきて堪らない。
 
 変わり野菜
 野菜作りの通にとって普通の品種では物足りないらしく、変わり野菜を作っておられる。初めて見る野菜も多くあり、種苗会社にいたころにはこんな品種は無かった。
(1)ヒスイナス 
 昨夏ナーオさんにいただいて、大変珍しく、美味しかったので今年は苗を頂いて作ったものである。一本だけ植えたので心配だったがよく育った。普通のナスには付かないアブラムシが付いて折角の美しい面が汚れるのが残念。Img_1166




(2)白いゴーヤ、紅いオクラ、仙台ナス
 サーキさんの作製で、白いゴーヤはシャキシャキとして美味しい。仙台ナスは浅漬けで頂いたが、食感良し。紅いオクラは夕食時サラダにしたが味は同じ、酔っぱらったオクラのようなものか。Img_1150 Img_1162





(3)食用ホオズキ
 サーキさんに苗を頂いたものだが、3本頂いて2本はヨトウにやられてしまった。残った一本がよく育ったが、斑入りの葉っぱかと思ったら虫に食われて散々の様子、それでもしっかり実が成っているがどうやって食うものか解らない。
 変わり野菜も面白いが、普通の野菜を美味しく育てるのが当面の努力目標。Img_1165 Img_1168
 
 



 アライグマ被害
 今日4回目の被害に遭う。被害は食害の胡瓜一本と爪痕の残されたトマトが3個。夏野菜も食傷気味なので悔しさも沸かないが、わなを仕掛けている脇で荒らされているのは納得がいかない。といっても問題はある。餌は竹輪を使っているが、この暑さであっという間に腐敗している、アライグマは連日来襲するわけでない、毎日取り替えるわけにいかないのだ。聞いたところに依るとかっぱえびせんなど乾いた食べ物でも有効らしいので、ちょっと目先を変えてみよう。Img_1163

またやられた。


 最も力を入れているもの
 生姜の栽培である。もう3年目の栽培だが、昨夏は冷夏で収穫がよろしくなくて、今年の暑さが豊作を期待させている。今年の工夫は畝が乾かないよう藁を敷いていること、暑さ対策に寒冷紗を掛けていること、毎朝水遣りをしていることである。水喰いの肥料喰いということだから追肥も忘れずにやっとこう。Img_1164
 
寒冷紗でキモチエーワ。 


 ゴーヤ、プッコチ
 昨年うまく行ったので高を括っていたのがこの2種である。どちらも昨年秋に採種したものである。ゴーヤは昨夏から地に下ろしたので猛暑といえども水遣りは不要と考えていたのだが、土の保水力が乏しくて毎日の水遣りが欠かせない。昨夏は冷夏でほとんど水遣りが不要だったので余計感じるのかもしれないが、土がカチカチのコンクリートのようになり、保水力が無いようだ。昨年のまま新しい土を入れることもなく来たのが失敗だった。連作でもあり、腐葉土などを入れてやるべきだった。根以外の部分に少しずつ入れてやろうと考えている。実は数日前に初収穫しているが、自家採種を続けているためか元来の大型種は姿を消してきた。
 プッコチも自家採種して播種したが残念ながら発芽することは無かった。メーパパがプランターで作っているのを畑に移して育てているが、どうも育ちが悪い。鷹の爪も発芽はしたがちっとも育たない。やはり苗から、あるいは新しい種から育てるべきなのか。Img_1114

ここに来るまではバーク堆肥の中で育てられていた。え゛~


今日のじょん:あまりの暑さに朝の散歩は中断、日陰の部分でぽんぽこぽんをしている。ところがたまにボールが日陰から出てしまう、なんとも気の毒なことだ。この影と日向の差。
Img_1159

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遊里のこと(11) 8/4

2010-08-05 | 歴史・民俗

2010.8.4(水)晴

 4月12日に遊里のこと(1)を書いてから、もう11回目となった。遊里のこと(4)2010.4.19で”ユリ”は淘汰の”ユリ”だろうと最初に答を出しているのだが、その後調査を進めるうちに”ユリ”地名というのが実は学者の間でも難解地名とされているようで、またその地域が限定されているので余計解明されにくい条件となっているようだ。Img_4651

鍛治屋町岼ヶ上


 これは軽々しく結論を出すべきではないぞと思ったが、もう出してしまったものは致し方ない。間違い、判断の誤りと思ったら素直に訂正しよう。しかし、それが正当であるかないかはなかなか判断がつかない。地名の語源については、特に難解地名については各説有り、その内正当なものがどれかということは自然科学の証明のようにはっきりすることはあり得ないのだ。仮にタイムマシンなどという機械が発明されて、過去の世界に行けるようになっても、それは判明できないだろうと思う。地名というのはそこに生活する人が、必要性があって呼んだものが普遍的なものとなって残ったわけだから、例えば法律が制定されるように何年何月何日に何とか法といって出来上がるものではないということだ。だから誰かが地名として呼んだ時点に行っても他の人は知らないだろうし、その地名が固定した時点に行っても、もうその語源は解らなかったり、変なものに附会されていたりするのではないか。
 結局現在地名の語源について正当と目されるのは、著名な先生の論文、書物に記されたものとなっているのではないか。確かにそういう先生と呼ばれる方は、私たちの想像を絶するほどの資料を集め、現地に赴いて現場を見、古老の話を聞くなどいわゆるフィールドワークに多大の時間を割いて考察されている。従って粗方は正当なのだろうと考えられるのだが、中にはどうも納得いかないものもいくつか存在する。
 綾部市史に日置(へき)について
 
国学者伴信友が「日は戸(へ)なり 戸数を記しておく地方政治に関係ある品部か」といっている。恐らく租税徴収のための戸数調査を任務とする部であろう。(太田亮)
とある。結構一般的となっている説だが、どうも納得いかないものがある。
 同じように”ユリ”については柳田国男先生の説が一般的になっている。つづく
(遊里のこと(10)は2010.5.30参照)


【作業日誌 8/4】
草刈り7回目の2

今日のじょん:犬には無駄吠えは無い。犬が吠えるのは何らかの理由があるわけで、それが有効な吠え、無駄な吠えと言っているのは人間の勝手である。先日サチママが、「サチは猿が来たら凄く吠えていたんだけれど、花火をしたら驚いて、猿が来ても吠えんようになった」というようなことを言っておられた。有効な吠えをしなくなった例だ。う~む、犬もデリケートなもんだなあ。ぐぐっといって訴えに来る、目があったら途端に爆発したように吠え出す。これは家の周りに何か来ている時のようだ。Img_1144

 

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葬式は、要らない?? 8/3

2010-08-04 | 日記・エッセイ・コラム

2010.8.3(火)快晴

 お盆が近づくとお墓や葬式の話も賑やかになってくる。不信心な私でもお墓詣りをしたりする。クローズアップ現代で「変わる葬式」と銘打って直葬などのスタイルを紹介していると思えば、讀賣新聞の文化面では今年一月に刊行されて人気の出ている「葬式は、要らない」島田裕巳著やそのアンサーブック「葬式は、必要」一条真也著などを紹介している。テレビも真剣に見たわけではないし、本も読んだわけでないので偉そうなことは言えないが、いずれも葬式そのものに対する考え方の問題で、哲学的、宗教的な根源のところの論議では無いようだ。
 それよりも7月10日に亡くなられた、つかこうへい氏の遺言には感銘した。あの短い文の中に、つか氏の生き様もポリシーもすべて凝縮しているようで、どんな位の高い戒名よりも、どんな大がかりなお葬式よりも、バカでかいお墓よりも値打ちと意味のある短文だと思う。この場で公表はしないが、その中には、戒名も通夜も葬式もお別れの会のようなものも、お墓も要らない、日本と韓国の間の海峡に散骨してくれという旨が書いてある。散骨を除いては私と同じ思いなのでドキリとしているところである。Img_0880
 
親父のお墓、死者のためより生者のためにあるようだ。


 私は葬式は生者が主役で、その悲しみを紛らわすため、区切りとしてのものと心の処理の場だと考えている。後に残った者が悲しむこと無くむしろ喜ぶぐらい生きるつもりだし、心の処理は事前にして置いていただくので、葬式は不要となる。ただ、ものの処理だけは自分で出来ないのでお願いするつもりだ。Img_3100
 
鹿児島県はおそらく日本一お墓を大事にしていそうだ。聞くと毎日花をお供えするそうだ。写真は桜島のお墓、火山灰対策だろうか、立派な家に収まっている。


 当の本人はどうなるかって、死とは映画の終わりみたいですべてが無くなる訳だから、戒名だお墓だなんてのも何も要らないわけだ。人生はスクリーンに映った映像のようなもので、終わってしまえば何もない。ではなぜみんなあの世だのこの世だの騒いでいるのだろうか。それは大脳のなせる技である。あの世も、地獄極楽も大脳が考え出した、この世をうまく生き抜くための仕掛けなのである。だからあの世がどうのこうのって惚けてしまって、この世を真剣に生きていなかったら、これほど矛盾した人生は無いわけだ。南無阿弥陀仏 合掌。

【作業日誌 8/3】
草刈り7回目

今日のじょん:上林は水がきれいだからブヨが多くて蚊が少ないと言われていたが、今年は蚊も多いぞ。蚊取り線香焚きまくってるんだが、、、、。Img_1140

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終戦の夏 8/2

2010-08-03 | 日記・エッセイ・コラム

2010.8.2(月)晴れ

 暑い日が続いている。この季節になると原爆記念日、終戦記念日などが近づき、新聞、テレビなどで戦争に関する記事や番組が多くなる。先の大戦を風化させることなくその不条理性や悲惨さを語り継いでいくことは大切なことだと思う。最近の報道では永年語られることの無かった部分や、海外における秘密文書などが公開されたりして新たな視点で戦争を観ることができる。やはり私たちの最大の願いは世界平和であると思う。Img_3689_3

長崎原爆落下中心地


 終戦とは直接関係ないのだが、民主党政権になって沖縄返還時の核密約の有無が俎上に上がった。結局有耶無耶になりそうな状況だが、今ここで明らかにしなければ永久に葬られることとなるか、あるいはどうでも良くなってから真相が語られるという茶番に終わりそうな気がする。昨日の讀賣新聞トップに「核密約草案も佐藤邸に」という記事があり、キッシンジャー大統領補佐官(当時)と極秘裏に議事録作成交渉を行ったとする若泉氏の証言の信憑性を裏付けるものと報道されていた。
 これは一大事、各報道も大騒ぎとなるかなと思いきや、ヘリコプター墜落やどこやらの最高齢者の年金詐取事件ばかり騒がれて、日本中平和と言うことに対して鈍感になりつつあるのかなあと寂しく感じる次第である。
 佐藤首相と言えば日本で唯一ノーベル平和賞を受賞している。しかもその事由は非核三原則などの功績というらしい。沖縄返還が1972年、ノーベル賞受賞が1974年だから、非核三原則を堅持した沖縄返還が大きく影響していると想像できる。それが裏で核持ち込みの密約があったとしたら、彼は一体どのような気持でノーベル賞を受賞したのだろう。
 湯川博士や田中博士の受賞は日本人にとっても誇りである。しかし、平和賞には?の付く人物も多く、北里柴三郎氏の未受賞については人種差別の兆候があるとさえ言われている。
 「こんな怪しげなノーベル賞なんざ、やろ言われてもいらんわい」
 「おとーさん、ノーベル賞ってもの凄い額の副賞が付いてるんやで」
 「それだけ貰うってわけにいかんのかいな」
 「まあ貰えてもノーメル賞やなあ」 ちゃんちゃん。

【作業日誌 8/2】
茗荷収穫

今日のじょん:ブヨの発生が多くなってきた。昼間はとても行動できないので、夕方が主な作業時間になるんだがこれが堪らない。かみさんは首から蚊取り線香ぶら下げて虫除けスプレーして散歩に出かけてるが、じょんはそういうわけにいかない。やむなく電子蚊取りなんぞをぶら下げている、どーだかねえ。Img_1147
 

 

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芝生物語(玄関前) 8/1

2010-08-02 | 日記・エッセイ・コラム

2010.8.1(日)晴

 日本一周の自転車旅に出てから4年の月日が流れた。今日がその出発記念日である。今日と同じようにくそ暑い日だった。灼熱地獄の亡者のようによたよたと京都から比良までの道を進んだ。今までは車やバイク、ロードレーサーで走り慣れた道なので甘く見すぎた。総重量は4,50KgになろうというMTBの歩みではいつまでたっても到着しない。おまけにチエンはずれのトラブル、これはロードレーサーなどでは数秒で解決するトラブルだがツーリング車では四つの荷物を全部降ろし、荷台の梱包を解いて修繕する大仕事となる。宿は見つからない、腹ぺこの上身体はくたくた、そしてなによりこれから日本一周を果たしてやり遂げられるかという不安で一杯だった。そんな不安を吹き飛ばしてくれたのが、宿のおばさんの親切だった。風呂とビール、美味しい食事これがすべての苦労を吹き飛ばしてくれる。(2006.8.1参照)
 そして四年後の今日、旅は終わったけど、定住という旅を続けている。今日のテーマは芝生の世話である。店玄関先の芝生はカフェじょんのびの顔である。実は建築時にはこの顔は無かった。あまりに無愛想なので、芝生広場に植え付ける芝を少しこちらに持ってきて植え付けたものである。バラスが最も深く、その下は山土で最悪の条件だったが、畑の土と真砂土をしっかり入れて、芝生を張った。階段と芝の周りにレンガを張り、周囲に花木を植え付けたが、軒下は雨が降らず、基礎のコンクリートが走っている。芝の生育には厳しい条件だが、なんとか育った。Img_0535
Img_1122
ビフォア、アフター

 
 今では両脇にオリーブが育ち、絵になってきたが今年のように晴天が続くと水が不足するようだ。
 生育が悪いためか害虫の発生も多く、昨夏はスジキリヨトウの大発生で、一晩に食い荒らされたこともある。(2009.8.3参照)
  今年も刈り込み後の生育が悪くて、約半分が茶色く枯れている。箸で地面を擦ってみると昨年ほどではないが、スジキリヨトウが出てくる。Img_1137 Img_1138 やっぱりこいつのせいかなと駆除することとして、熊手でサッチを取り除くべく擦ったら、出るわ出るわ。あっという間に2,30匹が瓶にたまる。きれいにゴミを取り除いて、スミチオンの2,000倍液をじょうろで振りかける。野菜などの食べ物でないからお構いなしだ。なるべく薄い溶液にして土壌にしみこませるのがコツだ。根の下や土壌内に潜り込んでしまうので、表面にかけただけでは効果がない。

【作業日誌 8/1】
玄関前芝生スジキリヨトウの駆除

今日のじょん:犬は習慣性の動物と言われるが、じょんはこれが強烈だ。先日大騒ぎをしてこしらえたペットゲートも予想通り、開いていても飛び出すことは無い。あってもなくてもいいようなもんだが、やはり従前の習慣が生きているみたいだ。Img_1146

 開いてても関係なし。

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