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リー・クアンユー氏死去、91年の偉業とは? シンガポール国父はなぜ政治家になったか

2015年03月24日 07時26分13秒 | 経済
 シンガポールの首相を務め、「建国の父」であるリー・クアンユー氏が3月23日、シンガポール市内の病院で亡くなった。91歳だった。シンガポール首相府は同日、「シンガポール初代首相であるリー・クアンユー氏の逝去を深い悲しみをもってお伝えする」と発表した。90歳を超えても意気軒昂だったが、今年2月初旬に肺炎で入院。シンガポール総合病院の集中治療室に入り治療を受けていたが、最近になって危篤状態が続いていた。

 リー氏は1923年、英国植民地だったシンガポールで生まれた。5人兄弟の長男。19世紀半ばにリー氏の曾祖父が中国からシンガポールに移民、祖父の代から英語の教育を受け、父は外資系企業に勤務していた。一族すべてが英語教育を受けた知識人であり、家族は英語とマレー語で会話をしていたという。

 1942年に日本がシンガポールを占領、軍政を始めるとリー氏にも危機が訪れる。日中戦争で中国側の抵抗の激しさに苦しんでいた日本軍は、それを支援していたシンガポールなど東南アジアに済む華僑を弾圧する。シンガポールでも中国人男子全員に対し「数日間の食糧を持って、市内各地5カ所に集まるように」命じ、それに応じたリー氏は「処刑すべき」リストに入る。だが、間一髪、逃げることができたという。この時処刑されたシンガポール華人は、日本軍関係者で5000人、同地の歴史家は5万人としており、戦後もこの問題が保障問題として浮上したほどだ。

 日本軍政時期、リー氏は放送局などに勤務する。しかし、この軍政がリー氏をはじめシンガポールの住民には、将来の独立に向けて一つの重要な意味を与えることになった。永遠に続くと思われた英国による支配があっという間に日本にとって替わった。そして終戦を迎え、日本が去った。これにより、ナショナリズム意識が芽を吹き出したのだ。リー氏は当時の心情を、次のように述べている。

 「私と私の同僚の世代は、若いときに第二次世界大戦と日本による占領を体験し、その体験を通して、日本であろうとイギリスであろうと、われわれを圧迫したり、いためつけたりする権利は誰にもないのだ、という決意をもつに至った世代です。われわれは、自ら収め、自尊心ある国民として誇りをもてる国で、子供たちを育てていこう、と決心したのです」

 戦後に英国留学を経験したリー氏は、このナショナリズムを強く再確認する。帰国後、弁護士として働いた彼は、独立運動で植民地政府に弾圧された労働組合や学生指導者の弁護を引き受けるようになった。この活動をこなしながら、政治への道を進むことになる。そして1954年、1500人以上の出席者を前に「人民行動党」(People's Action Party, PAP)を結成を宣言、政治家リー・クアンユーが本格的に誕生する。

 1955年、大幅な自治権が付与された立法議会選挙が行われ、リー氏はこれに立候補、当選したが、PAPは第一党を逃した。1957年に隣のマレーシアが英国から独立、シンガポールは1958年に英連邦内自治州となり、外交・国防を除いた完全内政自治権が付与される。そして1959年の自治政府選出のための総選挙でPAPは圧勝、35歳の若さでリー氏は首相に就任した。「ストロングマン」としてのリー氏の政治家人生は、ここから本格化する。

 シンガポールが独立する1965年まで、リー氏は二つの大きな試練を迎える。一つは、PAP内外の共産主義勢力との対決、そしてマレーシア連邦への加盟問題だった。結果は1勝1敗。共産主義勢力との対決をかろうじて勝利に導き、PAPの勢力を固めることができた。その勢いで、1963年にマレーシア連邦に加盟してシンガポール州となり、住民の生活の安定を図ろうとした。だが、マレーシア側が「華人勢力が強まり、連邦の結成を乱す」とされ、シンガポールのみでの独立を強いられた。独立とは言え、いわばマレーシア側による追放である。

 「私には苦悶の瞬間だ」。1965年8月、シンガポール独立を宣言する記者会見で、リー氏は人目をはばからず涙を流した。「シンガポールのため」と邁進してきたマレーシア連邦編入が、そのマレーシア側から追放される。前途を閉ざされたと感じたリー氏にとっては相当な衝撃だったのだろう。リー氏が人前で涙を流したのはこの時と、1980年に母親が亡くなった時のみと言う。だが、この涙は「シンガポール存亡の危機」と言われた状態への決別を意味する涙だったのかもしれない。

 リー氏がその後、シンガポールを現在のような先進国レベルにまで成長させたことに、詳しい説明は不要だろう。手厚いインフラ設備で外資を誘致し産業を興し、住民には雇用を増やして生活を安定させた。東南アジアで最も清潔で整備された街並みを見ても、豊かな国であることがわかる。「シンガポールを東南アジアのオアシスにすること」がリー氏の戦略の一端だったと述べたことがあるが、まさにそれを実現させたのである。

 その一方で、徹底して政敵を排除しPAPの独裁体制は現在も続く。野党には選挙制度や選挙区の改編で攻撃し、野党候補を当選させた地区には政府支援などで不利益を被るようにしたこともある。徹底した能力主義で国を発展させたことは間違いないが、住民に失敗・敗者復活を許さない教育制度などのエリート至上主義の政策には、人権上からの批判が相次いだ。それでも「現実的に自分は正しい」というリー氏は信念を持って反論、内外からの批判を許さなかった。そして、シンガポールもそれを受け入れてきたのは確かだ。

 1990年に首相から引退、その後も上級相、顧問相として政権内に居続け、しかも2004年からは長男で現在の首相のリー・シェンロン氏が政権を担ってきた。「リー王朝」との批判もものともせず、「必要だからいるのだ」と主張してきたリー氏に、2011年、衝撃が襲う。5月に行われた総選挙で、国会定数87議席のうちPAPは過去最低となる81議席、かわって野党・労働者党が6議席を獲得した。しかも、閣僚経験者の有力候補も相次いで落選。数の上ではPAPが多数だが、実質的な敗北となった。

 これには経済成長の停滞と、特に若い世代を中心にしたPAPの管理政治への不満が噴出した結果だった。当時の選挙戦で、リー氏は「野党を選んだことを後悔する」といった趣旨の発言をして、火に油を注いだこともあった。結局、この選挙結果をもってリー氏は、上級相のゴー・チョクトン氏とともに辞任した。他の政府機関からの役職からも退任し、ようやく政界から引退した。88歳だった。

 リー氏はすべてが完璧だったわけではない。建国の父として賞賛されるに十分な成果を残したことは事実だが、限界があった。たとえば、シンガポールにおける芸術や文学といった文化を軽視したこと。経済発展には無関係と見なし、国民の間の心の発展には無頓着だったとも言えるだろう。そして、普通の国民の気持ちや能力を理解し、評価しなかったことだ。

 彼は民主主義を唱えていた。だが、シンガポールの現実を考えると、西洋的な民主主義ではうまくいかないと言い続けてきた。その主張の影で、一般の国民が政治や社会についてどう考え、どう希望しているかという声をくみ上げることはなかった。その結果、2011年の選挙結果につながったことを、彼は理解していただろうか。

 「たとえ病床にあっても、墓に入れられようとしていても、何かが悪い方向へ進んでいると感じたら、私は起き上がるだろう」。リー氏は、シンガポールの将来を問う質問にはこのように発言してきた。だが、すでにポスト・リー・クアンユー時代は深化し、彼のようなカリスマをシンガポールは必要としていない。将来を予測するのは難しいが、シンガポールの将来をそれほど悲観することもない。リー氏が再び、「起き上がる」ような国ではない。それこそ、彼が残した最大の成果なのかもしれない。