7月15日(金)
市民の力は、決して津波で流されていない
山間部の矢作(やはぎ)地区に要望聞き取り対話活動
7時 起き 近所のコンビニで朝食
8時 一関市 宿泊所 ボランテイア支援センター出発
7時30分から 一関地域の県議候補高田一郎氏が交差点で朝の演説を行っていた。9月の選挙にむけもう本番。
9時30分 陸前高田市共同支援ボランテイアセンター着 センター青空市の店準備。
9時40分から 朝の集会
今日は、床鍋委員長が指示だしの責任者。昨日の海沿い、津波の「最前線」で甚大な被害を受けた気仙町とは「反対」の山間部に、和歌山、阪南の党の支援者とともに、班に分かれて訪問に入りました。
津波の被害はなく、地震の被害もどれくらいだろう?被害は少ないのでは?あまり、お話ができないのでは?という。不安を持ちながらの地域への対話訪問でした。
陸前高田市、市街地より約車で15分、距離で約20キロメートル山間部の矢作(やはぎ)地区に要望聞き取り対話活動をしました。
私と床鍋委員長の訪問は、午前中は、農作業中か?留守も多く、2人と対話ができた。
・年配の男性 地震で家の被害はなかった。地震発生時、高田市内の民商の事務所となりの碁会所にいた。大きな揺れで危ないと感じ、車で緊急に脱出、道はまだすいていた。矢作の家に戻ると、電気が途絶え、ラジオで高田が大変なことになっていることを知った。
被害はないと言いながら、友人知人、ご親戚は?と聞くと、知人、親戚が行方不明がいる。と答え、今は何も要望はないが。藤倉さん(地元共産党市議)がよく来てくれる。と言った。
・88歳のおばあちゃん。私は家にいて大丈夫だった。津波で近所のおばあさんや孫さんが行方不明でまだ見つかっていない。高田の瓦礫の状態見て、「もう諦めた」と言っていたが、なんて声をかけていいのか、「いつか見つかるから」といって励ましている。家族のことで「瓦礫の下でどこでどうなっているのか」と思うと、警視庁の車が行き交うだけで心がつぶれる思い。と話してくれました。「津波はここまできた」という、「昔の人の知恵を生かさないといけない。」と。
「ここ矢作でも停電が10日ほどつづき、ガスも残り少なく、高田があんな状態だから、補給の見通しもないし、木炭、練炭だしあって助け合ってしばらく暮らした。ローソクが大事だった。
私も、高田や大船渡の病院に通っていた。介護も必要だが、震災後はつぶれていけなくなった。今は近くの診療所だけが頼り。大変な人たちがいっぱいあるなか、生きてるうちに工夫してやっていって、どうにかこうにかやれている。」謙虚に話されました。
コンビニ弁当を食べて、昼食後、午後から、引き続き、地域訪問に出かけました。
・息子の仕事場が津波で壊され、車で戻ったが、消防団で再び救援に向かった。何日も泊まり込みで救援活動を続けた。しばらく収入がなくなった。
・息子は仕事が高田でなくなり遠くに単身で出稼ぎに出なければならなくなった。
・村唯一つの電気店では、「ここ矢作でも地震後10日間くらい停電した、ローソクが急に必要になり、近所ので電気店にローソクはないのかと問い合わせが殺到した」と笑いなばし?も話してくれた。
・高田の大型スーパーや店が壊滅し、買い物に困っている、遠く20キロ離れた一関市大東町までいっている、数度の行ったり、来たりは大変、早く高田の近所のスーパーが開店してくれることを望む。
津波被害から遠く離れた、この村でも、仕事、介護、医療、買い物など様々な影響が出ていることがわかりました。
「高田の共同支援センターでは、全国の物資を集め提供するとともに、こうしてボランテイアを派遣して、地域の皆さんの要望を受け止め、議員や市に届けています」と話すと涙ぐみ、「全国の皆さんや世界の皆さんに感謝します」とおっしゃられました。
帰りに和歌山の支援隊からのバレイシャオレンジを3個差し上げ、冷やしてお召し上がりくださいと、言うと「珍しいものをありがとう」「子供3人にたべさせます」と喜ばれました。
急いで、高田の共同支援センターにもどり、片付けと、終りの会を行いました。班からも支援の内容、対話の内容が語られましたが、藤倉市議団長から「4カ月日本共産党と市民の会の力を合わせて、復興活動をおこなってきた。市民の力は、決して津波で流されていない」と力強く語られました。
4時 活動を終了し、約1時間半かけ一関の支援ボランテイア宿舎に帰りました。
市民の力は、決して津波で流されていない
山間部の矢作(やはぎ)地区に要望聞き取り対話活動
7時 起き 近所のコンビニで朝食
8時 一関市 宿泊所 ボランテイア支援センター出発
7時30分から 一関地域の県議候補高田一郎氏が交差点で朝の演説を行っていた。9月の選挙にむけもう本番。
9時30分 陸前高田市共同支援ボランテイアセンター着 センター青空市の店準備。
9時40分から 朝の集会
今日は、床鍋委員長が指示だしの責任者。昨日の海沿い、津波の「最前線」で甚大な被害を受けた気仙町とは「反対」の山間部に、和歌山、阪南の党の支援者とともに、班に分かれて訪問に入りました。
津波の被害はなく、地震の被害もどれくらいだろう?被害は少ないのでは?あまり、お話ができないのでは?という。不安を持ちながらの地域への対話訪問でした。
陸前高田市、市街地より約車で15分、距離で約20キロメートル山間部の矢作(やはぎ)地区に要望聞き取り対話活動をしました。
私と床鍋委員長の訪問は、午前中は、農作業中か?留守も多く、2人と対話ができた。
・年配の男性 地震で家の被害はなかった。地震発生時、高田市内の民商の事務所となりの碁会所にいた。大きな揺れで危ないと感じ、車で緊急に脱出、道はまだすいていた。矢作の家に戻ると、電気が途絶え、ラジオで高田が大変なことになっていることを知った。
被害はないと言いながら、友人知人、ご親戚は?と聞くと、知人、親戚が行方不明がいる。と答え、今は何も要望はないが。藤倉さん(地元共産党市議)がよく来てくれる。と言った。
・88歳のおばあちゃん。私は家にいて大丈夫だった。津波で近所のおばあさんや孫さんが行方不明でまだ見つかっていない。高田の瓦礫の状態見て、「もう諦めた」と言っていたが、なんて声をかけていいのか、「いつか見つかるから」といって励ましている。家族のことで「瓦礫の下でどこでどうなっているのか」と思うと、警視庁の車が行き交うだけで心がつぶれる思い。と話してくれました。「津波はここまできた」という、「昔の人の知恵を生かさないといけない。」と。
「ここ矢作でも停電が10日ほどつづき、ガスも残り少なく、高田があんな状態だから、補給の見通しもないし、木炭、練炭だしあって助け合ってしばらく暮らした。ローソクが大事だった。
私も、高田や大船渡の病院に通っていた。介護も必要だが、震災後はつぶれていけなくなった。今は近くの診療所だけが頼り。大変な人たちがいっぱいあるなか、生きてるうちに工夫してやっていって、どうにかこうにかやれている。」謙虚に話されました。
コンビニ弁当を食べて、昼食後、午後から、引き続き、地域訪問に出かけました。
・息子の仕事場が津波で壊され、車で戻ったが、消防団で再び救援に向かった。何日も泊まり込みで救援活動を続けた。しばらく収入がなくなった。
・息子は仕事が高田でなくなり遠くに単身で出稼ぎに出なければならなくなった。
・村唯一つの電気店では、「ここ矢作でも地震後10日間くらい停電した、ローソクが急に必要になり、近所ので電気店にローソクはないのかと問い合わせが殺到した」と笑いなばし?も話してくれた。
・高田の大型スーパーや店が壊滅し、買い物に困っている、遠く20キロ離れた一関市大東町までいっている、数度の行ったり、来たりは大変、早く高田の近所のスーパーが開店してくれることを望む。
津波被害から遠く離れた、この村でも、仕事、介護、医療、買い物など様々な影響が出ていることがわかりました。
「高田の共同支援センターでは、全国の物資を集め提供するとともに、こうしてボランテイアを派遣して、地域の皆さんの要望を受け止め、議員や市に届けています」と話すと涙ぐみ、「全国の皆さんや世界の皆さんに感謝します」とおっしゃられました。
帰りに和歌山の支援隊からのバレイシャオレンジを3個差し上げ、冷やしてお召し上がりくださいと、言うと「珍しいものをありがとう」「子供3人にたべさせます」と喜ばれました。
急いで、高田の共同支援センターにもどり、片付けと、終りの会を行いました。班からも支援の内容、対話の内容が語られましたが、藤倉市議団長から「4カ月日本共産党と市民の会の力を合わせて、復興活動をおこなってきた。市民の力は、決して津波で流されていない」と力強く語られました。
4時 活動を終了し、約1時間半かけ一関の支援ボランテイア宿舎に帰りました。