7月17日(日)
日曜日だが、今日も、一関のボランテイア宿舎を8時に出発、9時過ぎに、陸前高田市鳴石の共同 援センターに到着しました。
早速、もう慣れたもの・・・青空市の準備にかかり、市民の会会長・市議団長も参加して朝のあいさつの会、今日の行動の打ち合わせにはいりました。今日は、本部の青空市の運営と竹駒地域にできた新しい仮設住宅訪問を午前中おこないました。
駐車場整理は重要な仕事
私は、昨日、一昨日と訪問続きだったので、今日は本部の青空市の運営に残りました。店長(実は市議団長の息子さん)から言われた仕事は、車の出入りの安全確認、駐車場の整理でした。(店長はいつも事故がなくよかったと終りの会で発言されています。)青空市に来られる方々の一番初めの窓口役で、しかも、車を整理しながら「いっらしゃいませ」と安全に気持ちよく来てもらえるようにすること。お帰りの時も事故にならないように安心して出発してもらえ、「バックオーライ、お気をつけて」と最後のあいさつを交わしあうという大変重要な役割です。
炎天下の中、3時間30分
炎天下の中10時から12時、そして昼休憩をはさんで12時30分から2時前まで約3時間30分、駐車場での案内をやり続けました。ここ岩手は、朝夜は比較的涼しくなるが、昼間は37度にもなる暑さ、暑さ対策は、水分補給と首にかけたタオルに水を少しずつかけて首筋を冷やすことTシャツまで濡れるくらいに。短パンでやったおかげで、出ていたふくらはぎが真っ赤に・・・・・。
頼りにされる青空市・共同支援センター
朝から、沖縄から、佐川急便で扇風機が10個、その後もゆうパックで、直接車で支援物資が届きました。「お客さん」だけでなく、看板をみて、針灸のボランテイアはどこに行ったらいいの」「秋田からあいさつにきた」などの様々な方々が共同支援センターに訪れます。ひっきりなしに、青空市に市民の方々が出入りされます。ここの、場所がたよりにされていることがよくわかります。
時のはこのように、「○○さん生きてたのね」と出会いの場になっています。
仮設住宅でも無料青空市
午後から、竹駒の新しい仮設住宅に、物資を集めて「訪問青空市」に出かけました。1週間前に民間の土地を借りてつくられた30個程度の仮設住宅で、午前中、泉大津市議3人と北福島地区の青年らが訪問、案内活動をおこなっていました。
午後2時、シートを引きテントを張って、青空市の準備ができるや否や、住民さんが多数おとづれ、食器、急須、湯呑、サラ、コップ、米、洗剤、スポンジ、香取せんこう、ハエ叩きなど飛ぶように「もっと早く来てほしかった」「探していたの」「必要やわ」と持ち帰られました。
住宅では「私は高田市内の海岸近くから津波でながされ、沈められ、浮き上がり瓦礫につかまり流されつづけ、急死に一生を得たのよ」と話される住民さんがおられ、見つかったアルバムをきれいに掃除されていました。
本当によく来てくれた、ありがとう
逆に、ボランテイアにミネラルウオーターを配くれる方もいらっしゃいました。避難所で行われていたコミュニテイーが仮設ではなくなってしまった。さびしい。といわれる方もおられ、自治会長らしき人は、「集会所にもお茶を飲み集まれるために湯飲み急須が欲しい」といわれ、運びました。「広報で、この青空市のことも報告したい」とおっしゃられ、市民の会の会長と机や座布団、テレビの設置など今後の要望など懇談されました。30分程度の青空市でしたが、「本当によく来てくれた。ありがとう」と喜ばれる活動でした。
息の長い支援を
3時、片付けをおこない、終りの会を例のように行いました。藤倉市議団長から、盛岡でのシンポジウムがあり参加したことを報告され、沢内村と陸前高田の支援の歴史について語られました。「1960年のチリ地震の時に高田が助けてもらい、その後の、冷害で沢内村が大変なときにこちらから支援をおこなった。支援活動は、息の長い取り組み、鳥羽市長も言っているように、今後も長い支援をお願いします」お願いされてしまいました。
日曜日だが、今日も、一関のボランテイア宿舎を8時に出発、9時過ぎに、陸前高田市鳴石の共同 援センターに到着しました。
早速、もう慣れたもの・・・青空市の準備にかかり、市民の会会長・市議団長も参加して朝のあいさつの会、今日の行動の打ち合わせにはいりました。今日は、本部の青空市の運営と竹駒地域にできた新しい仮設住宅訪問を午前中おこないました。
駐車場整理は重要な仕事
私は、昨日、一昨日と訪問続きだったので、今日は本部の青空市の運営に残りました。店長(実は市議団長の息子さん)から言われた仕事は、車の出入りの安全確認、駐車場の整理でした。(店長はいつも事故がなくよかったと終りの会で発言されています。)青空市に来られる方々の一番初めの窓口役で、しかも、車を整理しながら「いっらしゃいませ」と安全に気持ちよく来てもらえるようにすること。お帰りの時も事故にならないように安心して出発してもらえ、「バックオーライ、お気をつけて」と最後のあいさつを交わしあうという大変重要な役割です。
炎天下の中、3時間30分
炎天下の中10時から12時、そして昼休憩をはさんで12時30分から2時前まで約3時間30分、駐車場での案内をやり続けました。ここ岩手は、朝夜は比較的涼しくなるが、昼間は37度にもなる暑さ、暑さ対策は、水分補給と首にかけたタオルに水を少しずつかけて首筋を冷やすことTシャツまで濡れるくらいに。短パンでやったおかげで、出ていたふくらはぎが真っ赤に・・・・・。
頼りにされる青空市・共同支援センター
朝から、沖縄から、佐川急便で扇風機が10個、その後もゆうパックで、直接車で支援物資が届きました。「お客さん」だけでなく、看板をみて、針灸のボランテイアはどこに行ったらいいの」「秋田からあいさつにきた」などの様々な方々が共同支援センターに訪れます。ひっきりなしに、青空市に市民の方々が出入りされます。ここの、場所がたよりにされていることがよくわかります。
時のはこのように、「○○さん生きてたのね」と出会いの場になっています。
仮設住宅でも無料青空市
午後から、竹駒の新しい仮設住宅に、物資を集めて「訪問青空市」に出かけました。1週間前に民間の土地を借りてつくられた30個程度の仮設住宅で、午前中、泉大津市議3人と北福島地区の青年らが訪問、案内活動をおこなっていました。
午後2時、シートを引きテントを張って、青空市の準備ができるや否や、住民さんが多数おとづれ、食器、急須、湯呑、サラ、コップ、米、洗剤、スポンジ、香取せんこう、ハエ叩きなど飛ぶように「もっと早く来てほしかった」「探していたの」「必要やわ」と持ち帰られました。
住宅では「私は高田市内の海岸近くから津波でながされ、沈められ、浮き上がり瓦礫につかまり流されつづけ、急死に一生を得たのよ」と話される住民さんがおられ、見つかったアルバムをきれいに掃除されていました。
本当によく来てくれた、ありがとう
逆に、ボランテイアにミネラルウオーターを配くれる方もいらっしゃいました。避難所で行われていたコミュニテイーが仮設ではなくなってしまった。さびしい。といわれる方もおられ、自治会長らしき人は、「集会所にもお茶を飲み集まれるために湯飲み急須が欲しい」といわれ、運びました。「広報で、この青空市のことも報告したい」とおっしゃられ、市民の会の会長と机や座布団、テレビの設置など今後の要望など懇談されました。30分程度の青空市でしたが、「本当によく来てくれた。ありがとう」と喜ばれる活動でした。
息の長い支援を
3時、片付けをおこない、終りの会を例のように行いました。藤倉市議団長から、盛岡でのシンポジウムがあり参加したことを報告され、沢内村と陸前高田の支援の歴史について語られました。「1960年のチリ地震の時に高田が助けてもらい、その後の、冷害で沢内村が大変なときにこちらから支援をおこなった。支援活動は、息の長い取り組み、鳥羽市長も言っているように、今後も長い支援をお願いします」お願いされてしまいました。