hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

中目黒駅〜目黒駅の坂巡り③

2024-07-24 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その216。中目黒駅〜目黒駅の坂巡り③。新富士遺跡から次の坂を目指すが、なぜか再び、別所坂の上にある新富士遺跡に戻ってしまう。やむを得ずUターンし、気を取り直して歩く。

途中には馬頭観世音(石仏)が祀られていてこの道が江戸時代から続く古道であることを実感。しかし、この辺りの道は真っ直ぐではなく、勾配もあるので難しい。同じところをぐるぐる回ったのは初体験である。



坂を降りて広い道に出るが、ここにも道しるべがある。彫ってある字はよく読めないが、説明板には『中央に南無阿弥陀、右側にゆうてんじ道、左側に不動尊道(目黒不動尊)』と書かれていて1779年に作られたもの』と書かれていた。




パス通りを右折すると右側に防衛技術研究所の広大な土地がある。その脇をかなりの時間歩く。信号を右に曲がるとかなり広い道が出てきて下り坂となるが、これが『新茶屋坂』である。



かつては三田用水が上を通る茶屋坂隧道があった。しかし、1975年に三田用水は用済みとなり、廃止をされ、さらに2003年に道路拡幅のため姿を消した。



新茶屋坂から右に分かれていく道を歩き、二又を右、さらに真っ直ぐ降っていく坂道が『茶屋坂』である。





説明板にもあるが、『江戸時代は江戸から目黒に入る道の一つで大きな松が生えた芝原の中をくねくねと下る九十九折りの坂で富士の眺めのいいところであった。坂上に百姓彦四郎の開いた茶屋があり、将軍家光や吉宗が鷹狩りの際に都度立ち寄り休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、爺々と話しかけたので爺が茶屋と呼ばれ、広重の絵にも描かれている』と書かれる通り、彦四郎の茶屋があったのでこの名前がつけられた。また、落語『目黒のサンマ』はこんなエピソードから生まれたのであろう。



茶屋坂を下り、茶屋坂街かど公園を越え、真っ直ぐいくと目黒清掃工場の大きな煙突が出てくる。



目黒川が現れ、田道橋がかけられている。目黒区のコミニュティバスの愛称は『さんまバス』と名付けられている。



ここからは目黒川に沿って歩く。川沿いには桜が植えられていて花見の時期は大変な人で混み合うようだ。





目黒上橋まで歩き、目黒通りを左に曲がると権之助坂のバス停。道路は二又に分かれるが右側の逆一方通行の方が『権之助坂』である。権之助坂は田道付近に住んでいた菅沼権之助という名主に由来する。権之助は村人のために年貢を緩めて貰おうと訴えを申し出るが、捕まってしまい、死罪になる。刑場に向かう際に願いを聞かれ、我が家を見たいと言ったため、この坂(当時は新坂)の上から見て、喜んだ。村人たちは権之助の功績を讃えて最後に振り向いたこの坂を権之助坂と呼ぶようになったとのことである。



権之助坂を上がるともう目黒駅、しかし、坂や旧跡を訪ねながらの散策は2時間半かかった。