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事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

隠し剣 鬼の爪 その2

2007-12-09 | 邦画

Mainph032  映画の原作となった隠し剣シリーズと「雪明かり」は、暗さと明るさの間にある、過渡期の作品といえるだろうか。後世に残るのは一種の成長物語である「雪明かり」の方かもしれないが、剣豪小説の体裁をとる隠し剣シリーズはわたしの好みだった。山田洋次がなぜこの二作を選んで合体させようとしたかは判然としない。どう考えてもうまく融合していないのがつらいところ。

 学校の近く(でもないか、新堀地区)の最上川河畔で冒頭のシーンのロケが行われ、わたしの知人は一日中それを見学していたそう。そこまで暇かあんたは。小澤征悦が演ずる狭間弥市郎が江戸に出立するその場面は、ストーリー上、実はかなり重要だった。「女なんか江戸に行けばいくらでもいる」と軽口をたたき、「奥方に聞こえる」と主人公にたしなめられる小澤は、しかしその後、謀反人として海坂藩に戻り、悽愴な狂気を見せることになる。そしてなんとその上を行く狂気を、高島礼子が演ずる奥方がある事件の後に見せる……ここがこの映画のキモか。

 キャスティングについて、わたしは当初懐疑的だった。主役の永瀬正敏については(一日中ロケ見学していた知人は永瀬がお目当て。かわいそうに思ったスタッフが、カメラのそばに呼んでくれたそうだ。美人は得)山田洋次ファミリーとはいえ、今ひとつ華の無い役者だし、予想通り画面は弾まない。敵役としての緒方拳も意外なほど切れ味が鈍く、田中泯が主人公に授ける“必殺技”には思わず吹き出しそうになった。

Mainph042 ※小澤征悦のお父さんはつい先日酒田でコンサートを開いていったが、ロックしか聴かない中年男にとっては「あー、オザケンの伯父さんが来てるんだなー」なんて感想しかなかった。バチあたり。何やってるんだ健二!

 これだけの欠点をかかえながらも、しかしこの映画をわたしが愛するのは、すべて松たか子のためだ。次号は松たか子特集!

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隠し剣 鬼の爪 その1

2007-12-09 | 邦画

Kakushikenn ……二十年ほど前、藤沢周平をわたしにすすめてくれたのは当時の同僚。高校の先輩でもあったその社会科教師は、職員室で「いいよ……藤沢周平はほんとうにいい」と温厚な人柄そのままに小声で語った。

 歴史小説はともかく、人情の機微とかを描いたりする時代小説には縁がなく、そのなかでもひたすらに暗そうな藤沢の作品を一冊も読んだことのなかったわたしは「じゃあ、最初に読むとしたら何がいいんですかね」と先輩にきくと……

「『橋ものがたり』かな。あれは絶対だ。」

このアドバイスはきいた。以降わたしは藤沢の世界に耽溺し、アッという間に全作品を読破。そして新作を待ち望むようになった。簡単だーおれって。

 作品群が「武家もの」と「町人もの」に分かれることは「橋~」を特集したときにお伝えしたけれど、もうひとつくっきりと色分けできるのは、前期の作品が徹底的に救いなく暗いのに比べ、特に晩年はほんわかと明るく、温かい傾向にあることだ。これは多くの人が指摘するように、初期の暗さは、自身の病と、最初の奥さんの死が影響したのだろうし、二度目の奥さんの人柄が(ルックスを見れば一目瞭然)後期の作品を明るいものにしたのだと思う。「用心棒日月抄」や「獄医立花登」の変容がもっともわかりやすいだろうか。以下次号。

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たそがれ清兵衛

2007-12-09 | 邦画

Tasogareseibei 傑作でがんす。

 リプレイが見たくなるほどすさまじい真田広之と田中泯の殺陣。凄艶なまでに復活した宮沢りえの美貌。あきらかに「となりのトトロ」のサツキとメイを意識した子役たちの愛らしさ。ちょい役の一瞬の表情まで行き届いた演出。松竹の伝統で、円熟した監督がなぜかローアングルになる不思議。ナレーションだけが庄内弁ではない理由がラストでちゃんと明かされる計算された脚本。そしてそのラストであの大女優が庄内平野に立って見せる貫禄の演技……
 日本映画が久々に見せる、静かな語り口の、丁寧につくられた作品だ。
 
しかしわたしはこの映画を観ながら、もう一本の“撮られなかった映画”のことを考えていた。

二十数年前、山田洋次は盆と正月に作り続けなければならない寅さんに疲れ果て、別の企画を松竹に提案していた。「武蔵と寅吉」がそのタイトル。老いた剣豪が寅吉という百姓の家を訪れて……といったストーリーだったと思う。配役は武蔵に三船敏郎、寅吉はもちろん渥美清である。

だがこの企画は会社の徹底した拒絶にあう。もはや寅さんでしか稼げなくなっていた松竹系の興行主たちが猛反対したからである。当時就任した松竹の新社長は、就任の第一声で「『武蔵と寅吉』は撮らせない」と言明せざるを得なかったほどなのだ。

Seibeitate 以来、山田洋次は心のどこかにその鬱屈を抱えてきたのだろう。黒澤明を師と仰ぎ、落語にも造詣の深い山田が、時代劇が撮りたくないわけがないのである。

そして、奥山前社長一派をクーデターで追放し、もはや社長以上の権力者になった山田が満を持して放ったのがこの作品なのだ。翌日に藩命によって心ならずも人を殺しに行かなければならない真田が、深夜に刀を研ぐシーンに、一瞬、善良なルックスのなかに狂気を抱え込んでいる渥美の姿がダブったのはわたしだけではないと思う。

ネイティブの庄内弁スピーカーであるイオンシネマの観客は、やはりどこか不自然な役者たちの庄内弁に苦笑していたが、ご当地映画として「砂の女」や「湯殿山麓呪い村」以上に感情移入できるように作ってあった。庄内人必見。

Tasogare2 日頃めったに映画など見に来ないのであろうおじいちゃんたちは、帰りにもぎりのお姉ちゃんに「いい映画だけの。ありがどの。」と礼を言っていた。いい光景だ。

イオンシネマもここはちゃんとこう言って返さなきゃ。
「もっけでがんしたー。しぇば。」

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放送禁止歌 6曲目~チューリップのアップリケ

2007-12-09 | 音楽

Okabayashi  かつて、あの司馬遼太郎でさえ「竜馬がゆく」で差別用語を使ったことで強烈な糾弾をかまされて謝罪したぐらいである。心のどこかに差別する馬鹿げた気持ちがある人間が、確信犯的に差別語を使う事例があとを絶たない頃、差別される側として他にどんな戦法があったか。

 今ではまったく見るべきところのなくなった小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」のなかで、事故で死にそうになった若者が、“友人”である民の輸血を受けて助かった後、「なんちゅうことしたとや!オレの体に○○○(差別語)の血が入ってしもたやないかー!」と絶叫するエピソードはなかなかに考えこませた。

 この「放送禁止歌」にも、結婚差別に関する悲痛な事例が語られている。

ある娘が恋に落ちた。相手は出身の男性だった。娘の両親は教育者であり父は同和教育を教える立場にもついていたという。結婚を決意した娘の告白に、「同じ人間だ。反対などするわけがない。」と父親は祝福したという。ところがまさしく結婚式の前夜、娘の父親は突然、露骨な賤称語を絶叫しながら、猛反対しはじめたという……その後の話はここに書くことができない。取材をあきらめさせるほどに凄惨な話だ。

……いったい何だろう。“他人を差別することで、どんなにみじめな自分でも癒されることができる”といった動機だけでは、説明がつかないほどのこの強固な差別意識は。よくよく考えてみれば、大昔、いくさに負けた一族を日陰に追い込んだだけの話ではないか。

Okabayashi2 こう書きながら、それでは自分の息子なり娘なりが被差別の人間を結婚相手に連れて来たとき、お前はそれを笑って祝福できるのか……実はこの本を読んでから、心の内でずっとそれを考えていた。ずぅっと。

結論。できる。格好をつけるようだが、ここではっきりと断言しておく。
                      
 放送禁止からだいぶ話がそれてしまった。岡林信康の「チューリップのアップリケ」や「手紙」についてもふれておきたかったのだが、ドキュメンタリーとしては反則ギリギリの岡林のエピソードは、直接この好著で読んでもらおう。

解同の糾弾におそれをなし、自分で判断することなく、ただ「危なそうだから」というだけで放送禁止に追い込んできた結果、メディアはずいぶんと無責任なものとなった。現在この問題が声高に語られないのは、要注意歌謡曲という制度がなくなったからではなく、単に音楽のプロモーションにおける放送媒体の価値が低下したからにすぎない。

問われているのは、放送局の姿勢であると同時に、それはつまりわれわれの性根の問題なのだ。
放送禁止歌の数々は、そのことを小さな音量で、しかし力強く伝えている。 

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放送禁止歌 5曲目~竹田の子守唄

2007-12-09 | 音楽

Takedanokomoriuta もりもいやがる 盆からさきにゃ
雪もちらつくし 子もなくし

くせのだいこんめし きっちょうのなめし
またも竹田のもんばめし

早よも行きたや この在所こえて
向こうに見えるは 親のうち

……ご存じ、「竹田の子守唄」だ。といっても、歌詞が憶えているものとちょっと違うな、と思われた人もいるだろう。

 そもそも「竹田の子守唄」が赤い鳥によってヒットした経緯はこうだ。1966年、東京芸術座で「橋のない川」を上演するにあたり、その音楽に被差別に伝承されてきた曲をモチーフに使うことになり、音楽監督が京都市竹田地区をたずね、一人の老婆から子守歌を聞かされた。このとき採譜された曲をベースにアレンジが加えられ、解放同盟の合唱団が唄っていたものを関西フォークのアーティストたちがライブで歌い始め、これまたそれを聞いた赤い鳥のリーダー後藤悦治郎(現紙ふうせん)がレコーディングをした、と。上の歌詞は元のものに近い形。後藤はこの曲を大分県竹田市のものだと思っていたぐらいだから、赤い鳥のなかに当時どれだけの覚悟があったかはわからないが、その成り立ちから言って、「竹田の子守唄」は完璧に“の唄”なのだ。 

 この曲が放送禁止に指定された論拠は、歌詞のなかに出てくる「在所」という言葉のためらしい。在所、とは被差別を指す呼称だという。

「竹田の子守唄」に限らず「通りゃんせ」や「かごめかごめ」までが“要注意”になってしまうという差別の問題は、実は山形生まれの山形育ちであるわたしには実感として理解できない部分が大きい。差別用語としての【特殊】の数が全国最小に近い県の人間にとってはしかたのないことかもしれないが、同和教育が必須だったらしい関西人とは、その心構えからしてちがう。

Akaitori  だいたい【】という呼び方など、山形のど田舎では【地区】ぐらいの意味しかもたず、国体が来るあたりで急いで【自治会】などというしゃらくさい呼称に変更になったぐらい。過剰防衛もいいところ。わたしもあなたも民、でけっこうだったのに。

 ただ、だから能天気に解放同盟=解同の、かの有名な糾弾戦術が過剰なものだったかというと、ここは微妙なところだ。以下次号。

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放送禁止歌 4曲目~ボスしけてるぜ

2007-12-09 | 音楽

Kiyoshiro 問題はここに顕著だ。たとえそれがどんなに上質なアルバムの曲であろうが、原のようなノンセックスなシンガーが歌うことでむしろシャレになっていようが、そんなことは民放連は忖度しやしない。あくまで機械的にチェックするだけ。そして放送局はそのことに何の疑問もいだかず、機械的に封印してしまうというわけだ。

 過剰な例はこれだけではない。永六輔のエッセイによると、戦後まもなくだかのラジオで「三月生まれは浮気者」という曲が放送禁止になった例がある。当時の皇后が三月生まれだった、それだけの理由で。

 あるいは有線放送。RCサクセションの「ボスしけてるぜ」が、労働意欲を失わせる(笑)という壮絶な理由で銀座の有線から閉め出されたこともあった。RCの当時のコンサートで、「くだらねえ有線の経営者がこの曲を放送禁止にしたけど、ここでは思いっきり歌うぜベイベー」という清志郎のMCは客には大うけだった。

 要注意歌謡曲の制度がなくなった今、それでは放送禁止などという馬鹿げた事例はなくなっただろうか。

 どっこい。今でもブラウン管から消えるか変形を強いられている曲は続々と。
 例えばミスチル。「名もなき詩」のなかの
♪Oh darlin’ ぼくはノータリン♪ が
♪Oh darlin’ 言葉ではたりん♪ に言いかえられ
 鬼束ちひろ「infection」の
♪爆破して飛び散った 心の破片が♪ 
 の一節が「同時多発テロを連想させる」ために放送自粛扱いを受けたのは記憶に新しい。マスメディアはまだまだこんな馬鹿なことを続けているのだ。

Noname  誤解されると困るので一応言っておくと、公共の免許事業であるテレビやラジオにおいて、どんな表現だって許されるべきだと主張しているわけではない。その言葉によって傷つく人間がいるとするなら、単なる言いかえですますのではなく、きちんとその背景とマスメディアが向き合っているのか。そこじゃないですか。

 意外に思われるかもしれないが、むしろ、差別語については抹殺されるべきものがあってしかるべきだと考え、ちびくろサンボの問題だって及び腰だった私にして、こう考えている。みなさんはどうお考えだろう。

 さて、実はここまでは前ふり。次回はこのシリーズで一番語りたかった差別について特集する。ちょっと、気合い入ってる。

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