事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

1976年のアントニオ猪木 1戦目

2007-05-17 | スポーツ

1976inoki プロレスを語るのはむずかしい。賞揚してもくさしても批判をあびるにきまっているのだ。プロレスこそ最強の格闘技だと固く信じている人もいれば、単なる出来レースになにを興奮している、と冷たく突きはなす人もいる。折衷案として虚実皮膜の間に「味」をもとめる“プロレスの味方”もインテリには多い。いずれにしろ、お前のプロレスに対するスタンスはどんなものなのか、を明確にしないと語る資格すらない雰囲気がある。要するに宗教に近いわけ。その宗教の善くも悪しくも“教祖様”は文句なくアントニオ猪木。文藝春秋の編集者だった柳澤が著したこの本は、1976年に行われた猪木の四つの試合が、なにゆえに陰惨な結果を招いたかを描いている。

 その四試合とは……
①2月6日、日本武道館におけるウィリアム・ルスカ戦
②6月26日、同じく日本武道館におけるモハメッド・アリ戦
③10月9日、韓国テグで行われたパク・ソンナン
④12月12日、パキスタンのカラチ・ナショナル・スタジアムのアクラム・ペールワン戦
……である。

①はいわゆる異種格闘技戦のはしり。アントン・ヘーシンクとオランダ柔道界で確執があったルスカ(妻がオランダ政府公認の売春婦であったことで差別されていた)に、猪木はバックドロップ三連発でTKO勝ちする。

②はいうまでもなく“世紀の凡戦”として今でも語られる一戦。猪木はマットにあお向けになり、アリはそのまわりを“蝶のように舞い”ながら、お互いが「カモーン!」と挑発しあう。異種格闘技である以上、猪木は寝技に、アリは殴り合いに持ち込みたかった結果だ。

Timeslip03_img01 ③はアリ戦で自分をランクアップさせたと信じる(と同時にアリ戦で多大な借金を背負った)猪木が、韓国プロレスのスターだったパクを、掟破りにも敵地で(目に指を入れてまで)破ってしまった試合。観客もプロモーターも殺気立ち、猪木はほとんど逃げるようにして帰国している。

④は、パキスタンの人気レスラー一族のペールワンに、ダブル・リストロックを“遠慮なしに”決め、左肩を脱臼させ、靱帯も損傷させて試合続行不可能となり……

……わたしはこの四試合をまったく見ていない。①③④はともかく、猪木VSアリ戦をわたしの世代で見ていないのはめずらしいと思う。実は中継のときにやくざ映画を観ており、映画館のもぎりに置いてあったテレビで、あ、今やってるんだと気づいたぐらい。なぜ観なかったというと……以下次号

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深夜の人たち 第8夜~ビートたけし

2007-05-16 | 芸能ネタ

タモリ篇Ⅱはこちら。

最終回はやっぱりこの人。ツービートの片割れ、というか面白いほう(笑)という世間の認知度は、オールナイトニッポンへの登場によって「たけし」として一気に高まったと言えるかもしれない。

「ツービートで営業にいくと30万、でも俺ひとりなら100万円。あいつ(きよし)はマイナス70万円タレントか!」と嘆くぐらい人気は沸騰した。

「こいつのオヤジは山形では名士ですよ。山形で初めて二本足で立って歩いた人ですから」

「山形の人は、飛行機が飛ぶたんびに家から出て拝むんですから」

Takeshi_kitano_photo この手のいじめネタで一世を風靡したビートたけしだけれど、この番組への出演がなかったらはたして現在の「世界の北野」の称号は手に入れられただろうか。テレビでは絶対にできないネタを、自分で笑いながら(多忙を極めた彼は、おそらく投稿をその場で初めて読んでいたのだと思う)披露した2時間は、どうしてあんなに笑ったんだろうと今では不思議に思うぐらいだ。

 あのおかしさを支えていたのは、いつも隣で「ししししし」と小声で笑っていた構成の「高田さん」こと高田文夫の存在だろうか。まだ「バウバウ」と松村邦洋のネタにされる前の彼が「うりふたつのナス」「口から先に生まれてきたような逆子」などという不条理ギャグへリスナーをリードしていったのだし、村田英雄やポール牧ネタをたけしがうれしそうに炸裂させることができたのも、高田という最良の“相方”を得たことによるのだと思う。

 どうやら近頃、深夜放送を回顧するのが流行になっているようで、お菓子の付録で昔のラジオのフィギュア(ビタースィートサンバのジングル付)や、懐かしのカメ&アンコーのCD(このあいだ読者にいただきました)までコンビニで売っている。でも、意外なことにTBSのひとり勝ちとも言える現在のラジオにかじりついている“今のリスナー”たちは、いったい、どんなDJに夢中なんだろう。わくわくしながらSONYのスカイセンサー5500に耳を傾けていた十代のわたしのように、深夜の訪れを待っているんだろうか……(終)

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深夜の人たち 第7夜~タモリⅡ

2007-05-15 | インポート

タモリ篇Ⅰはこちら

Tamori02  この深夜芸人を、お昼の帯番組に、しかもMANZAIブームの終焉によってみんなが視聴習慣を失いつつあった「笑ってる場合ですよ」の後番組に起用しようと考えた人間は、よほどの慧眼の士か、あるいはどうでもいいやと開き直ったかだろう。およそ成功するとは思えなかった「森田一義アワー 笑っていいとも!」は、しかし現在もなお続く大ヒット番組となった。

 この成功の要因については、思い当たるふしがある。おそらく森田一義は、タモリとしてのギトギトの深夜芸に自分で見切りをつけ、自分らしさを消していこうとどこかで切り換えたのではないか。若い頃の森繁そっくりな風貌と存在感から、味のあるバイプレーヤーに進む道もあったかもしれない。でもタレントのくせに「自分の色を消す」という選択をするあたり、なみのクレバーさではない。

3dayscondor01  「友だちの輪」やさんまとのからみに顕著だが、主張の強い相手をいなすことに活路を見いだし、「ただいるだけ」の存在の凄みは「後世に評価されたい」欲望をかけらも感じさせない。「アーティストを緊張させたくないから」と意図的にテンションを下げているミュージックステーションや、司会者に冷水を浴びせる発言ばかりしているトリビアの泉などをよーく見てほしい。タモリ自身が、およそ何もしていないことがわかる。保険の営業マンだった時代に職場結婚した奥さんを表にいっさい出さず(フェイ・ダナウェイ似なのだそうだ。見たい)、スキャンダルの匂いもしない。子どもの頃に事故で失った片目の視力を考えてみよう。おそらくはテレビにもっとも露出している身障者にもかかわらず、そのことをわたしたちは意識することすら忘れている。存在することの不自然さをも消し去った、やはり、特異なタレントと言えるだろうか。

 その意味で、オールナイトニッポンで彼が語っていたなかに、思い出される話がある。
「ブランデーとかコニャックとかって、そりゃあ美味いよ。美味いけど、いつも飲もうとは思わないだろ?でもウィスキーはなんでいつも飲むかっていったら、あれ、まずいからだよねえ(笑)」

次回は最終回、ビートたけし篇

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深夜の人たち 第6夜~タモリ

2007-05-14 | 芸能ネタ

Tamori01 第5夜、浜田省吾篇はこちら。

 今となっては信じられないことかもしれないけれど、ひと頃のタモリほど「深夜の人」というフレーズが似合う芸人はいなかった。

早稲田を授業料滞納で除籍になり(友だちに貸してしまって返ってこなかったらしい)、朝日生命の営業やボーリング場の支配人などで糊口をしのいでいた森田一義は、地元である福岡に帰り、喫茶店のマスターをやっていた。ある日、ホテルの一室で行われていたバカ騒ぎにまぎれこみ、彼のあまりの面白さに……そのホテルの宿泊客こそ、山下洋輔や中村誠一などのジャズ・ミュージシャンであり、その人脈から赤塚不二夫の家に居候することが彼のスタート……まあ、ここまでは伝説ですわな。

わたしがタモリを初めて見たのは、東京12チャンネル(今のテレビ東京)がBBCから買い付け、なぜか山形でも日曜深夜に放映されていた「空飛ぶモンティ・パイソン」でのこと。モンティ・パイソンといえば、テリー・ギリアムやジョン・クリーズなどの天才集団がシュールなギャグを連発していた番組で、日本人にはまず理解不能な部分が多く(イギリス人だって果たしてわかってたもんだか)、日本版の司会をやっていた今野雄二や秋川リサ(当時は立木リサ)が「いったいこれはどういう意味なんでしょう?」と困惑している姿が印象深かった。

そしてこの番組におけるタモリはまさしく革命的だった。かの有名な4カ国語麻雀(もともとは藤村有広=ひょっこりひょうたん島のドン・ガバチョ。私生活ではけっこうなホモだったらしい=のネタ)や、レコードプレーヤーに向かって指揮棒を振り、しかもダメ出しまでやる(笑)という密室芸を披露していた。この、初めて見るいわば深夜芸人にわたしは熱狂したが、その後「うわさのチャンネル」などでゴールデンタイムに進出した彼は、それこそ“出ているだけでお宝映像”といったありがたみは薄れ、全裸でなければ意味をなさないはずのイグアナのマネなどでお茶をにごしていた。

 賭けてもいい、このままだったらタモリは現在「あの人は今」的なあつかいをされていただろう。ところが……

タモリ篇Ⅱにつづく。

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深夜の人たち 第5夜~浜田省吾

2007-05-13 | 芸能ネタ

Hamasho 前回「朝の5時まで」はこちら。

県内各地から事務職員が集まった某会合で収集したネタの数々。

①上山の劇場トキワ館の息子である脚本家伊藤和典と、某超有名漫画家は実は夫婦。

②江○洋介と森高○里の夫婦が、上山のマンションを購入。たまに見かける

③来生た○おの奥さんの実家は蔵王駅前のたばこ屋。よく来生が店番をしている。

④浜○省吾の奥さんは米沢の出身で、彼の「マネー」という曲に出てくるさびれたメインストリートとは、実は米沢のこと。

事務職員部の情宣に載せたので伏せ字にしてあるが、解説すれば①の超有名漫画家とは高橋(うる星やつら)留美子であり、②③はすぐにお分かりのことだろう。「嘘だろう?」と情報提供者に突っ込むと、「ほんとだってば!」と強硬に主張するので、まあ話半分としてこのうちの二つぐらいは事実なのかも。問題の浜田省吾だが、その「マネー」の♪この町のぉメインストリートわずかぁ数百メートルぅ♪ってのが米沢のことらしい。彼の年上の奥さんは昔フライデーですっぱ抜かれていたけれど、むしろサングラスをはずした浜田本人の方が衝撃映像扱いされていて笑えた。

で、この浜田省吾も、なんと深夜放送(確かセイ!ヤング)でDJをやっていて、生真面目そうな人柄(お父さんは警察官だし)からは想像もできないくらい面白かったのだ。「ロックンロールナイター!」の絶叫で始まるプロ野球話のコーナーでは、出身地を反映して広島カープのネタしかやらない姿勢がバカバカしくてよかった。ところが、上には上がいるもので、浜田がアメリカにレコーディングに1ヶ月ほど出かけた間、そのピンチヒッターで出てきたアーティストがめちゃめちゃに面白く、浜田は復活後、ほんのわずかでその男にDJの座を奪われてしまったのである。

その男……当時はまったくの無名だったハウンドドッグの大友康平のことです。

次回、タモリ篇につづく。

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深夜の人たち 第4夜~朝の5時まで

2007-05-12 | 芸能ネタ

前号「谷村新司」篇はこちら。

Hako_best 前回、歌よりもMCの方が達者なアーティストが起用されたと書いた。でもなかにはとんでもない例外もある。山崎ハコはそのひとり。それはそれはくら~いフォークを歌っていた彼女も、なんとオールナイトニッポンでパーソナリティをやっていたのである。「オレはハコを聴いてたぞ」というレスが来たときはくやしかった。ちょっとした隠し玉のつもりだったのに。

セイ!ヤングが0:30~3:00。オールナイトニッポンとパックインミュージックが1:00~3:00の放送。文化放送とTBSは、3時からはトラック運転手向けの「走れ!歌謡曲」や「歌うヘッドライト」がスタート。高校生や大学生の多くは、だからニッポン放送のオールナイトニッポン2部を聴くことになるわけだが、ここにはたくさんのマイナーな連中が登場した。ハコもそのひとり。

Chikadaharuo 他にも、結果的に映画コーナーのおすぎをメジャーにした稲川淳二(友人の披露宴で司会をしていたら、あまりの面白さにスカウトされたらしい。すごい時代)や、今はTokyoFMの歌謡ベストテン(まだこんなタイトルなのか不明)で、白々しく明るいMCをやっているが、当時は徹底して暗かった深野義和、NSPの天野滋(追悼)、何者なのか最後までわからなかったコッペ、意外にもスティーヴィー・ワンダーの大ファンであることを広言していた尾崎亜美……しかしいちばん過激にして熱狂させられたのは近田春夫だ。この、ハルヲフォンなどのミュージシャンである以上に、当時、雑誌「ポパイ」誌上で「気分は歌謡曲」という名物コラムを書き、現在は週刊文春に「考えるヒット」という、もっともまっとうな音楽評論を連載している彼の放送には、目を見開かされることが多かった。

 評価の対象となることなどありえなかった歌謡曲を、とりあえず好き嫌いを基準にとりあげ、筒美京平の楽曲の素晴らしさや、日本の作曲家たちがどれだけ洋楽をパクっているか(来生たかおの「夢の途中」なんぞ、ひねりも何にもないパクリだった)を検証するなど、われわれの世代に与えた影響ははかりしれない。翌日の学校では、仲間内のほとんどが聴いていて「すごいけのー」とか言っていたのだけれど、朝の5時までラジオを聴いていてそれでも元気に高校に通っていたのだから、思えばあの頃は元気だったなあ。

第5夜~浜田省吾篇につづく。

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深夜の人たち 第3夜~谷村新司

2007-05-11 | 芸能ネタ

Chinpei01 前回「ナッチャコ&局アナ」篇はこちら。

 さて、今回からアーティスト篇。当時メジャーになりつつあったフォーク系のシンガーソングライターが次々に深夜放送に進出した裏には、前回も特集したように当時のリスナーの嗜好がどんどんフォークソング(といっても日本の場合、プロテストソングというより四畳半センチメンタルソングであることが多かった)に傾いていたことと、【テレビには絶対に出ない】と格好をつけていた彼らにとって、舞台としての深夜放送は便利だったこと、そして、コンサートのMCが、歌よりもウケているしゃべりの達者なアーティストが多かったことがあるだろう。

 代表格はレスにもあった谷村新司だろうか。この、元アリスの旦那は「暗い過去」コーナーのようなエッチ系ネタにめっぽう強く、おまけに「天才・秀才・バカ」という、んもうおバカ極まりないコーナーでは、いっしょに出ていたばんばひろふみ(サチコや、「いちご白書をもう一度」の人ね)とともに、死ぬほど笑わせてくれた。今は大御所然としている谷村だが、どこかしらエッチ系の匂いが抜けないのは、それがまったくの地だからだろう(笑)。

 でも、こんな言い方は失礼だけれど、アリスの場合、当時はとーにかく全然売れなかったのである。どんな曲を出してもダメだった。それがギャグのネタになっているぐらいだったし。それが、何かの間違いで「冬の稲妻」や「チャンピオン」でブレイクしてしまったのだけれど、わたしはアリスの曲や「昴」の、いったいどこがいいのか実は今でもさっぱりわかんないのであった。

次回はオールナイトニッポン第二部を。

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深夜の人たち 第2夜~局アナの時代

2007-05-10 | 芸能ネタ

前号繰越

Ochiaikeiko

 アラン・ドロンなどの吹替声優にして、劇団薔薇座の座長だった(若い世代には野沢直子のおじさんと言ったほうがとおりがいいか)野沢那智と、「怪物くん」や「巨人の星」の明子ねえちゃんの声でおなじみの白石冬美(チャコ)がなぜコンビを組んだかというと、先に声優として売れ始めた白石に「誰かいい人いない?」とTBSのパック・イン・ミュージックのスタッフが声をかけ、あの人がいいんじゃない?と決定したのが当時新進だった野沢だったそうだ。

「小生……」で始まる投稿に、白石が無邪気につっこみ、それを野沢がたしなめるパターンが多かった通称ナッチャコパックは、今から思えば微温的、かつあまりにも生真面目だったかもしれない。しかしそれが70年代の空気というものだったし、ある意味、リスナーとDJの距離がもっとも近かった幸福な時代と言えたかも。

 局アナの多くもこのパターンを踏襲していて、現在からは想像もできないくらいアイドル的な人気のあった“レモンちゃん”落合恵子などは、若い世代に真摯に向かい合おうとしていた。ベイシティローラーズ擁護論などでわたしにはとてもついて行けなかったが(つまりわたしが圧倒的にガキだったのだ)。

Itoigoro  一方で、DJ(ディスク・ジョッキー)は、その名の通りレコードを回すことから発祥した以上、新譜をガンガン流してくれという需要は強かったはずだし、職人として「ゴーゴーゴー・ア~ンド・ゴーズオン!」の名調子で有名な故糸居五郎はその意味で最高だった。

 でも、いっそのことミュージシャンにしゃべらせてしまえばいいんじゃないか?と最初に気づいたのは誰なんだろう。しゃべりのプロたちの独壇場だった深夜放送に、ある意味、素人でもあるシンガーソングライターたちを起用した作戦は当たった。

以下次号

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「拝啓、父上様」フジテレビ 倉本聰脚本

2007-05-09 | テレビ番組

31855015 放映が終了しても、さまざまなところでいまだに絶賛されている。この分だとDVDの発売も早まるかもしれない。このドラマはもちろん75年から77年にかけて放映された「前略おふくろ様」(日テレ)のアンサーソングのような存在。視聴率も安定していたので、「前略~」のように第二シリーズが制作されることも期待できる。

「前略おふくろ様」との相似はこうだ。

主人公が内気な板前……萩原健一(前略)、二宮和也(拝啓)

主人公がつとめる料亭の女将……八千草薫

主人公が尊敬する花板(はないた)……梅宮辰夫(前略では秀次、拝啓では竜次)

怒ると怖いが欠点も多いとび職…室田日出男(半妻…前略)、松重豊(シャク半…拝啓)

そして、ある意味“失われた”親に語りかけるスタイルが(あいだに『北の国から』をはさんで)なによりも共通している。

「前略おふくろ様」は地元にもDVDが入荷しているのであらためて特集することとして、「拝啓~」のすばらしさは、久しぶりに倉本聰が“軽い”コメディで本領を発揮してくれたことにつきる。「2丁目3番地」(日テレの土曜グランド劇場)や「浮浪雲」(テレ朝)でみせた切れ味が健在だったのだ。

 これはうれしい。他にもいろいろと書いていたとはいえ、この二十数年の倉本はどうしたって「北の国から」(フジ)。すばらしいドラマだし、わたしもくりかえし泣かされたが、やっぱり重いじゃないですか。しかもただ軽いだけでなく(ただ軽いだけのドラマの方がむずかしいのだが)、こんな会話で古い町(→神楽坂)を惜しみ、しかし若い世代への期待を自然にシンボライズしてみせる。

竜次(梅宮辰夫)「これは俺からの、お前への餞別だ……京都の、有次(ありつぐ)の包丁だ。それも左利きだ」
一平(二宮和也)、一礼して包みを解く。
竜次「いつかも云ったがお前は本来左利きなのに無理して右利きで仕事をしている。昔の板前はそうだったかもしれんが、もうそんな時代ではないと思うんだ」
一平「……(聞く)」
竜次「もっとも、もう長いこと右でして来たから最初は却って馴れないかもしれん」
一平「……」
竜次「使いにくかったら使わんでもいい。自分に自然な……楽な方を選べ」
白木の箱のふたを開く。そこに並んだ一式の包丁。
一平、無言で頭を下げる。
竜次「身のふり方も、自分で選びな」

……くーっ、うまい。ぜひともDVDで堪能して!

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深夜の人たち 第1夜

2007-05-08 | 芸能ネタ

Allnight_nippon01 1981年1月1日(!)、ダディ竹千代の降板をうけて始まったオールナイトニッポンの新パーソナリティによって、革命は起こった。

 大げさに聞こえるかもしれないが、聴いたことのある人なら、同意してもらえるはずだ。このパーソナリティは、ほんの3ヶ月ほどのつなぎのはずだったのに、以降、1990年12月27日まで、まるまる10年間深夜放送のトップランナーとして突っ走ることになる。幸運にもその1回目を聴いていたわたしは、午前1時から3時まで、帰省していた実家のふとんの中でのたうちまわることになる。あまりに笑いすぎたせいで。

♪ジャッジャジャ・ジャッジャジャ・パラッパッ♪

おなじみのビタースィートサンバが流れ、その男はやけっぱちのようにこう叫んで革命の開始を宣言した。

「ビートたけしの、オールナイトニッポン!」

 それまでの深夜放送といえば、局アナが担当することが多かったし、その後フォーク系のアーティストに移行し、そしてこの時期からお笑いがメインストリームになったのだろう。

レスを参考に大別するとこんな具合だろうか。

局アナ……斎藤安弘、亀渕昭信、高島秀武(以上ニッポン放送)、落合恵子、土居まさる、吉田照美(文化放送)小島一慶、林美雄(TBS)

アーティスト……谷村新司、山本コータロー、さだまさし、近田春夫、谷山浩子、長渕剛、かぜ耕士(たむたむたいむの人。作詞家で、今はドキュメンタリーなんかを撮っているらしい)、松任谷由実、北山修(元フォーク・クルセダースにして精神科医)

色物……とんねるず、所ジョージ、ナインティナイン、コサキン

分野別に考えてみる。まず、革命前の深夜放送がどんな存在だったかを、よーく理解できるレスが来ているのでご紹介。

私はセイ・ヤングを聞いていました。一番好きだったのはゆうちゃん(山本雄二)です。全国放送ではがきを読んでもらったのもこの方からです。ほとんど毎週かかさず聞いていました。たぶん木曜日だったような。「きりんさん」の作詞者でもあります。(作曲者はべーやんこと、堀内孝雄です)「きりんさん」の歌詞でもわかるように放送の内容もいつもあったかい感じで大好きでした。

 グレープも好きでしたが、チンペイ(谷村新司)の放送もよく聞いていました。(Horiさんが好きそうな)「今だから言える暗い過去コーナー」は次の日学校で話題になっていました。私にはよくわからない内容でしたが……。

 剛と千春のオールナイトニッポンもたまに聴いていましたが、ちょうど就職して初めて一人暮しを始めた頃だったので、すごく励まされたという思い出があります。

 今では全然聴かなくなってしまいましたが、昔は生活の一部だったような気がします。なつかしいですね。初めてはがきが読まれた時の感動は忘れられません。

…… そうなのだ。深夜放送とはこのように、時間帯ゆえに孤独な存在であるリスナーの悩みを聞いたり、励ましてくれる存在だったのである。「深夜の解放区」というキャッチフレーズがそれを物語っている。ここでなら、取りつくろわず、本音をさらすことができた人は多かったはず。

その代表が野沢那智&白石冬美のナッチャコパックだったのだが……これは次回でいこう。それにしても、ゆうちゃんて知らないなあ。

第二夜につづく

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