お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

お寺に住んで

2006年09月05日 | 仏教
 「お寺に住んでいて、気持ち悪くないですか?」と聞かれることがあります。境内に墓地があるから、幽霊や火の玉を連想されるのかもしれません。
「いや、仏様ばかりで、幽霊はいませんが、むしろ、誰か潜んでいるかもしれないと思うと、そのほうが恐いです。人間ほど恐ろしいものはありませんから」と、私。
 
 また、面と向かっては言われませんが、「お寺は、死者を預かり、死者を人質?にしてお金を要求するところ」という悪いイメージも多いようです。普段、お寺に足を運んでくださらない方ほど、こういうイメージをお持ちのようです。
 実際、うちの寺も数年前、本堂以外全て壊して、行事用の門徒会館と私たち住職家族が住まわせてもらう庫裏を新築しましたから、ご門徒さん方には多額の負担金でご迷惑をおかけしました。
 
 お寺で誤解が多いのは、住職を代々子孫で継職しているところが多いので、お寺は住職家族の持ち物だと思っておられることです。つまり、一般店舗のように、オーナーである住職が、顧客である門徒(檀家)に仏事のサービスを提供していて、門徒は自分がサービスを要求する時だけお寺に用事があり、自分の受けるサービス分だけ「お布施」という名前で支払いをする・・といった感覚です。
 
 だから、寄付をお願いすると、「普段の自分の生活に何の関係もないお寺に何故門徒というだけで、寄付を要求されるのか。自分の寺のことはは自分で何とかしろ!」と思われるわけです。
 でも、お寺は住職の持ち物ではありません。ご門徒さんの共有物で、オーナーはご門徒さんなのです。住職はいわば、ご門徒さん一同の代表として、お寺に住まわせてもらい、仏事をさせていただいているのです。
 
 その仏事についても、誤解が多いようです。
 仏事は、死者を慰めるために行うのでは、ありません。死者は阿弥陀如来に救われて浄土(仏の世界)に生まれ、阿弥陀如来と同じはたらきの尊い仏さまに成っておられます(と、浄土真宗では受けとらせていただいています)。
 仏事は、今は仏と成られている亡き方をご縁に、私たち一人ひとりが仏教に縁を結ぶために行います。「この私」が何の問題にもならないのでは、仏教ではありません。
 
 幸い法専寺のご門徒さんは、ご理解ある方ばかりで、物心両面から強力にお寺をサポートしていただいています。年数回開かれる法座(一緒にお経をあげて、仏教の話を聞く集い)も、大掃除にも、おとき(肉魚を使わない精進料理の昼食)当番も、ご自身の諸用を差し置いて、お寺に駆けつけてくださる有り難い方々がたくさんおられるのです。住職(夫)も私も大変幸せものです。
 
 第一、自分のことを棚に上げ、仏さまのご威光を笠に着て、いつも偉そうなことを話したがる、私を寛大に見まもり、支えてくださっています。感涙の毎日です。
 
コメント
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