三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

キモいでしょ♪ そう言って笑ってよ♪

2020年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム

キモいでしょ♪
そう言って笑ってよ♪

後で知ったのだが、366日というタイトルの歌だそうだ。

そしてこれも後で知ったのだが、
キモいでしょ♪ ではなく、
おかしいでしょ♪ だそうだ。
私の鼻歌の間違いを指摘した女性の不愉快そうな顔が印象的だった。

キモいでしょ♪ は、とことん自分を突き放した歌詞で、自らを嘲笑うようなニヒルな感じだが、
おかしいでしょ♪ は、単に他人に甘えているに過ぎない。

ガッカリな歌だった。


社労士本間由美子の「ほう」

2019年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム

とある講習会にて。
これほど「ほう」を使った話をはじめて聞いた。

 

顧問先のほうに健康経営のほうをおすすめさせていただいて認定のほうを頂戴しました。

会社のほうを休んではいないが、生産性のほうが低下している。

厚労省のほうから会社のほうに連絡のほうがある。

働き方改革は政府のほうで対応のほうを進めている。

健康経営のほうも一緒に考えてほしい。

リーフレットのほうを付けてあります。

銀バッジのほうを取ると、優良法人のほうも取れる。

こちらのほうで進めていく。

会社のほうに係るお話のほうや相談のほう、担当者のほうを決めていただく。

費用のほうについてご提案のほうをさせていただく。

お手元のほうに用紙のほうがあります。

協会けんぽのほうに窓口のほうが定められていて、専門家のほうを会社のほうに派遣します。

私のほうで取り組んだ事例の紹介のほうに入ります。

回覧文書のほうを回す。

取組のほうを始めてみてください。


日の丸君が代が嫌いな理由

2017年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 広島県議会議員の石橋林太郎という人の公式サイトで紹介されていた作文。平成11年、広島の小学4年生の女の子が学校の授業で書いたその作文のタイトルは「日の丸・君が代」。

「私は、日の丸と君が代が嫌いです。
日の丸の赤は日本軍が殺した人の血の色で、日の丸の白は日本軍が殺した人の骨の色だから、私は日の丸が大嫌いです。
そして君が代は、日本軍にそんなことをするように命令した天皇を称えた歌だから、私は君が代も大嫌いです。」

 石橋林太郎はこの作文を書かせた教育を憂えているが、この女の子が作文を書いたのは教育のせいではない。動機はもっと深いところにある。

 昭和天皇に戦争責任があることは、世界的に知れ渡っている。岸信介をはじめとするA級戦犯たちが天皇を騙して傀儡としていたという子供だましの解説を信じている人たちが、国旗国歌法案を作った全体主義の議員に投票し、この国の右傾化を支えている。頑張れニッポン、日の丸万歳とスポーツで応援する精神構造は、天皇陛下万歳と言って他国民を虐殺した日本軍と同じ精神構造であることに気づかねばならない。
 他人や他国への憎悪は暴力や戦争に直結する。国家主義に走ってしまった歴史を反省し、日の丸や君が代を相対化する努力をしなければ、再度の過ちを犯すことになるだろう。安保法が成立し、共謀罪が施行されたいまの時代は、戦前とそっくりだ。東京オリンピックを応援するマスコミがその傾向に拍車をかけている。親の世代は戦争の悲惨を忘れていても、子供は本能的に危険を察知しているのかもしれない。


核兵器廃絶のために

2017年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 北朝鮮の核実験で、防衛論議がかまびすしい。しかし誰も本質的な質問をしない。
 それは、アメリカの核はよくて、どうして北朝鮮の核はだめなのかという質問だ。国連憲章には各国の主権を互いに尊重しなければならないと書かれてあるではないか。
 また、核兵器禁止条約に参加しなかった日本が、どうして北朝鮮の核武装を非難できるのか。
 すべての疑問は、核兵器廃絶を主張しながら、大国の核兵器保有を認めているという構造的な矛盾から生じている。そろそろ本当に兵器のない世界を目指して、本質的な議論を始める時代が来たのではないか。


親に死ねと言われたよ

2017年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 石田ゆり子が自動車のCMでチェッカーズのヒット曲「ギザギザハートの子守唄」を歌うのを聞いてびっくりした。
 出だしの歌詞が、ずっと「ちっちゃな頃から悪ガキで親に死ねと言われたよ」だと思っていたのだ。この歌はリアルタイムで聞いた記憶がなく、テレビ番組で断片的に聞くだけだった。だから「ちっちゃな頃から悪ガキで」を聞いて、続きの歌詞を自分で無意識に作詩していたようだ。親に死ねと言われて居場所がなくなった子供の流浪の物語なのだなと思っていた。
 それが石田ゆり子のCMで「15で不良と呼ばれたよ」だと知ったときは、不良だったことを自慢しているみたいで、なんとなくがっかりした。


言論の自由を損なおうとする女性

2017年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム

 Change.orgというサイトから、賛同を求めるメールが来た。乃木坂46が歌っている「月曜日の朝、スカートを切られた」という歌が、トラウマを刺激して不快だからやめさせるという運動に賛同しろというメールだ。
 共謀罪が成立したからと言って、言論の自由を早速侵害する運動を始めるのはどうか。秋元康も好きじゃないし、乃木坂46にも興味はない。しかし歌は表現だ。言葉の表現、即ち言論の自由である。政府によって特定の歌が恣意的に禁じられる時代がどんな時代であるのか、そんな想像力さえ働かない頭の悪い女性がこんなことを考える。言論の自由が奪われれば、スカートを切られるどころの話ではないのだ。

https://www.change.org/p/%E6%AC%85%E5%9D%8246-%E6%9C%88%E6%9B%9C%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%9C%9D-%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%92%E5%88%87%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F-%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%9B%B2%E3%81%8C%E3%81%A9%E3%82%8C%E3%81%A0%E3%81%91%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%81%AB%E8%BE%9B%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%8B?utm_medium=email&utm_campaign=aa_sign&utm_source=112645&j=112645&sfmc_sub=362138014&l=32_HTML&u=22090411&mid=7259819&jb=258


TBSドラマ「カルテット」

2017年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

TBSドラマ「カルテット」の冒頭を観た。
http://www.tbs.co.jp/quartet2017/

よくわからない展開ながら、キャストの満島ひかりが以前にNHKの「とっとテレビ」で若き日の黒柳徹子を好演していたのを観ていたので、今回もすこし期待して観はじめた。
ところが、はじまって10分ちょっと過ぎたくらいの、カルテットの4人が食事をするシーンで、唐揚げにレモンをかけるかけないの話になり、それが怒り対蔑みという小学生レベルの論争になってしまったのを見て、このドラマを見るのをやめてしまった。
唐揚げにレモンをかけたくない人もいるので、断わりなしにレモンをかけるのはどうかという発言は、大人としてはけっして発すべきでない無礼な言葉だ。食事の際に同席者の気分を損ねるのは、唐揚げに勝手にレモンをかけるよりもずっと非常識な振る舞いである。この発言をするのが高橋一生で、松たか子がその発言に同調する。満島ひかりと松田龍平は閉口するという図式だ。このシーンは、このドラマが今後どういう展開になるかを既に物語ってしまっている。
今後は4人が我儘組と常識組の2人ずつに分かれ、我儘組に常識組が振り回されながら、ストーリーが進んで行くだろうが、唐揚げの議論に象徴されるように、登場人物の誰にも哲学がなく、精神的な余裕もない。これでは深い世界観は期待できないし、安っぽい展開にしかならないことは、誰が見ても明らかだ。

TBSの火曜日22時といえば、一大ブームとなった「逃げるは恥だが役に立つ」の枠だっただけに、あまりの落差の大きさに、開始10分ちょっとで早くも落胆してチャンネルから離脱してしまった。
たったひとつのシーンでそこまで決めつけなくてもと思う人もいるかも知れないが、ドラマや映画のシーンはひとつひとつが非常に大事で、いまどき小学生でもしないような低レベルの論争を延々と出演者に演じさせる、演出家の精神性の低さは、すべてのシーンに影響するだろう。ドラマ全体を深みのない、浅薄なものにしてしまうのだ。せっかく4人の達者な俳優を使うのに、残念至極である。


早春の夜の由比ガ浜

2016年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

夕闇の迫る海岸は目の悪い人間にとって危険な場所だ。道路から浜へ降りる階段も道に積もった海砂も、見過ごしそうになる。時には足を踏み外したり躓いたりすることもある。そんな危険にもかかわらず、人は波の近くに行ってしまう。そこには波の音、潮風の匂いに加えて、夜の海の静寂がある。人が浜辺に寄せられるのは、どうしてなのだろうか。

小学校で習った童謡のひとつに「冬の星座」という歌がある。その一番の歌詞に「静寂」と書いて「しじま」とルビが振ってあった記憶がある。子供心に、その読み方がお洒落で洗練されていて、要するにかっこいいと感じたのだと思う。だからいまだに歌詞を憶えているのだ。

それにしても子供の頃の記憶は、ほとんどが忘却の彼方に置き去られているのに、いくつかの記憶だけが妙に鮮明に残っていることがある。それはおそらく思い出せることだけを何度も思い出しているからであろう。いわば記憶の反芻だ。反芻を繰り返すうちに記憶は鮮明になっていくが、同時に都合よく作り変えられることがある。同窓会でかつての美少女と再会して落胆した経験のある男性は意外と多いのではあるまいか。想い出は常に美化されるものだ。

子供の頃の記憶は、同じシーンの記憶でも、人によって憶えていることが違う場合もよくあることだ。人が話したことにまったく記憶がなかったり、こちらの憶えている内容とかけ離れていたりする。それぞれが自分なりに記憶を反芻した結果、ほんとうのところがどうだったのか、誰にもわからない場合もよくある。

記憶が脳のどのようなメカニズムによって作られ保管されるのかは知らないが、度忘れしたことを時間が経って突然思い出すことがあることから、記憶というものは実は消えたり変化したりするものではなく、潜在意識の中にあるがままに保管されているものだと思う。忘れてしまったというのは思い出せないだけで、記憶自体は脳のどこかに消えずに残っているのだ。「憶えている」ことを英語ではrememberという同士を用いる。rememberは「思い出す」という意味でもある。記憶力がいいというのは、思い出す能力が高いということだ。潜在意識と顕在意識の間のパイプが太いという言い方をしてもいい。記憶に番地があるとすれば、住所録を常に整備している人が記憶力がいいということになるのである。

「顔を洗って出直す」という言葉がある。今は使う人が少ないと思われるフレーズだが、「顔を洗って出直して来い」という使い方が一般的だった。顔に限らず、人間は水に触れると心が落ち着くとされている。理由は不明だ。もしかすると遺伝子の中にそういうプログラムを内包する細胞があるのかもしれない。

海岸に限らず、湖畔や川辺などの水に近い場所にリゾート地がある理由も、なんとなくわかる。並みの近くに行きたくなるのは遺伝子の記憶によるのかもしれない。


自殺の先延ばし

2016年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム

私は自分では鬱病ではないと思っています。もともと鬱病というのは躁鬱病のことで、強気と弱気、歓喜と悲哀、希望と幻滅が激しい状態のことだと思います。鬱病の人が自殺するのは幻滅して深い悲哀を感じ、極端に弱気になっているときです。
大学の心理学で、人間の気質と気性について学びました。気質は躁鬱質、分裂質、癲癇質の3つに分類され、気性は強気、中気、弱気の3つに分類されるそうです。人間の性格は、気質と気性で3×3の9種類に分類されるとのことでした。
気質の分類がいずれも病気のような名前であることが目立った特長です。躁鬱病、精神分裂病、癲癇。癲癇が脳の器質的な特徴なのであるとすれば、躁鬱病も精神分裂病も同様に脳の器質的な特徴なのかもしれませんね。

会社では、ここ数年、産業医なるものが月に一度やってきます。労働者の衛生環境と健康を維持するためとのことですが、受診する人は誰もいません。悩みを相談して、万が一鬱病とでも診断されてしまったら、仕事を減らしたり休んだりしなければならないし、当然仕事しない間は無給だし、場合によっては会社を辞めなければならなくなるかもしれません。会社組織の中では、自分は大丈夫、元気一杯ですとアピールし続けることが生き延びる知恵のひとつです。誰が好きこのんで仕事をやめさせられたいと思うでしょうか。
産業医が訪問することになった元の法律というのが、製薬会社とつるんで国民を薬漬けにすることに余念のない厚生労働省が中心になって作った「労働安全衛生法」という法律です。厚生労働省は利権を拡大し、予算を確保して天下り先を確保するのが仕事ですから、この法律もその基本に従って作られています。ひとつの法律が施行されると、その法律を守るためのビジネスが生まれます。それはとりもなおさず、天下り先が生まれたのと同じことです。
天下の悪法であるマイナンバー法も然りです。「マイナンバーはおまかせ」と、NTTをはじめとするハイエナみたいな企業が既にテレビコマーシャルもはじめています。ちなみにNTTは、電話加入権という、詐欺みたいな用語を使って電話の加入者から現金を預かって、それを絶対に返そうとはしません。アパートの大家さんだって敷金は返してくれるというのに、NTTは悪質です。悪質どころか、役人や政治家に働きかけて、法律を変えて、電話加入権の現金を返さなくていいことにしたという、日本でも最悪の企業です。悪の総本山の企業と言っていいでしょう。それを法律が守っている。摩訶不思議な国です。

もともと法律というのは共同体と個人、共同体と共同体、個人と個人の間の権利義務関係を調整するためにあるはずです。調整することで、全体の生産性や生活が向上して、国家全体が豊かになるためのものです。
しかし日本の法律は違います。役人と政治家が豊かになるためのものだからです。マイナンバー法で生産性が向上したり生活が向上したりするかというと、そんなことはあり得ないと、誰もが直感的にわかります。
それでもそんな法律を作る。そして羊のような国民は、唯々諾々としてそれに従います。戦後70年経ってもまだ「お上」という権威は圧倒的な力を持っているのです。
マイナンバーなどというどうしようもない法律を作る安倍政権の支持率が40%を超えていることからも、日本人がいまだに権力に効し難い性格の人間ばかりであること、個人よりも共同体に重きを置く国民性であることがわかります。

こんな日本とは早くオサラバしたいところですが、外国に目を向けてみても、フランスのオランド大統領が「これは戦争だ」と言ってみたり、イギリスが空爆を開始したりと、世界の指導者も安倍に劣らずアホばかりです。行くべきところはどこにもない気がします。鬱病でなくても世の中に幻滅して深い悲哀を感じ、極端に弱気になるのは私だけではないでしょう。

ということで、なるべく早くこの世からいなくなるのが最善です。日本も世界も、まったく救いようがありません。人間というものがもともと救いようのない存在だからなんだということが、自分も人間であることを厳粛に踏まえつつの、新年早々の認識なのでした。
日本も人類も、未来はありません。人類に取って代わる何かが次の世代の中心になるでしょう。それが何かを見届けたい気もしますが、機械が機械を自己複製する時代はさぞかし気持ちが悪いでしょうね。

そうは言っても、自殺を実行に移すと移さないとでは大きな隔たりがあります。漠然と、自分と共同体と人類に絶望的な見通しがあったとしても、それだけではなかなか自殺という行為には至りません。早く死ぬことについては構わないが、自殺するというのとは違います。
今年は、自殺を念頭に置きつつ、少しはいいことがあるのではないかと映画を観たりコンサートに行ったりしつつ、なんだかよくわからないうちに一年が終わりそうで、そしてなんだかわからないうちに一生が終わりそうな、そんな一年になる気がします。 


私たちの家電依存度は?

2015年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

全自動洗濯乾燥機が壊れてしまいました。20世紀の遺物で、もはや修理もままなりません。大きさが小さくて重宝していましたが、逆にその小ささが仇となって、我が家は問題を抱えることになりました。
マンションに最初から備え付けの洗濯乾燥機で、その大きさに合わせて洗面台のあるカウンターが作られており、カウンターの下にちょうど入る大きさだったのです。その大きさの洗濯乾燥機は、どのメーカーも製造しておらず、200ミリくらい高さが高いものばかりです。その高さのものはカウンターの下には入りません。かといってリビングや寝室に置くのも、給水と排水の関係から、難しい。となるとカウンターを工事するしかありません。洗面台ごと200ミリ程度上に上げる工事です。
暮れの忙しい時期にそんな工事を請け負ってくれる内装業者はどこにもおらず、細い伝手をたどっても、年明けに見に来てくれるのが関の山です。
そうこうしているうちに洗濯物がどんどんたまってしまい、結局は風呂場で手洗いするしかありません。これが結構しんどくて、洗うのはいいのですが、絞るのが大変。絞らないとすすぎができないし、干すのも大変です。昔の人は手で洗濯していたわけで、本当に大変だったのだなと思いました。
というわけで、年明けには洗面台を工事して、新型の洗濯乾燥機を購入、設置する予定ですが、それまでの1ヶ月か2ヶ月はかなりしんどい洗濯生活をする羽目になりそうです。

普段は洗濯乾燥機のことをあまり意識せずに使っていましたが、壊れるとこれほど困るということは、洗濯乾燥機に相当依存する生活をしていたという訳で、考えてみれば我々は家電に依存しながら生きていると言っても過言ではありません。朝はデジタルの目覚まし時計で目を覚まし、電灯をつけ、携帯電話のメールをチェックしながらテレビを点けます。寒い朝はエアコンのスイッチを入れて、冷蔵庫から取り出した食事を電子レンジで温め、電気ポットのお湯でコーヒーを飲みます。歯を磨くのは電動歯ブラシで、髭をそるのは電気カミソリ。給湯器のスイッチを入れてシャワーを浴び、パソコンで天気予報を確認します。布団乾燥機をセットして乾燥した後、掃除機でダニを吸い込み、床にも掃除機をかけつつ、洗濯乾燥機に洗濯物を放り込みます。掃除が終わると空気清浄機で部屋の空気をきれいにします。トイレは電動のシャワートイレです。

ひとつひとつ挙げてみると、なんだかんだ言いつつ家電がないと生きていけない生活になってしまっているのが現実です。確かに便利だし時間の節約になります。しかし何のための節約なのか、節約した時間が有効に使われているのかを考えるとき、なんだか疑問が残ります。
家電に依存する便利な生活は、そうでない生活に比べて幸せなのか。便利になることが幸せなら、現代人は江戸時代の人に比べてずいぶん幸せなはずです。しかしそれほどでもないように感じますよね。 
もしかしたら、これからは「脱原発」と呼応して「脱家電依存生活」がトレンドになるかもしれません。