三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

外食のハラル対応について

2015年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム

ハラル対応のセミナーに出席しました。セミナーの情報が必ずしも正確かどうかは不明ですが、聞き取った内容を以下にまとめてみます。

イスラム教徒のことをモスリムと呼びます。正しい発音は不明でムスリムだったりモスレムだったりします。マホメットも、モハメッドだったりムハンマドだったりします。キリストがイエスだったりジーザスだったりヤソだったりするのと同じで、いろんな言語で呼び方は変わります。日本人にはできないような難しい発音の場合もあります。ここでは、私が昔教わった、モスリムとマホメットという言い方をします。

モスリムの要諦は、六信五行だそうです。
そして六信とは、次の六つを信じることです。

  1. アラー
  2. 天使
  3. 啓典
  4. 預言者
  5. 来世
  6. 天命

アラーや天使が存在するかどうか、経典が正しいのかどうか、マホメットが本当に存在したのか、マホメットは本当は何を言ったのか、それを言ったのは本当にマホメットなのか、来世があるのか、天命とされるものは正しいのか、そういったことに関する根拠は何もありません。信仰なので、ひたすら信じるだけなのです。モスリムでない私たちが言えることは、イスラム教を信仰する人は確かに存在するということです。そしてモスリムの数は世界的に増加傾向にあるようで、もうすぐ20億人を超すそうです。世界は必ずしもいい方向に向かっているとは言えず、そんな中でモスリムが増えていくということは何を意味するのでしょうか。世界観や価値観は常に変遷し、俗な言い方をすれば人類は右往左往しながら生きてきました。モスリムが増えているのもあるいは一過性の現象かもしれません。人類の諸問題は究極の解決に至ることは決してなく、マルクスの説いた過渡期は永遠に過渡期のままであるような気がします。

話が横道にそれてしまいました。六信五行の五行は、次の行動のことです。

  1. カリマ(信仰)
  2. サラート(礼拝)
  3. ザカート(喜捨)
  4. サウム(断食)
  5. ハッジ(巡礼)

このうち、1.カリマはシャハーダ(信仰の告白)と言われる場合もあるそうです。ハラル(HALAL)とは、神から許されたという意味合いだそうで、許されていないことはハラム(HALAM)と呼ぶそうです。イスラムでは、必ずしなければならないことから、したほうがいいこと、してもいいこと、しないほうがいいこと、絶対にしてはいけないことに分かれているとのことでした。その中で、ハラムというのは絶対にしてはいけないことで、それ以外をハラルと呼んで差し支えないようです。ハラル対応で最も重要なのが食物に関することで、ハラル対応の実に90%は食物の対応なのです。食物に関する対応以外では、毎日5回のお祈りのための場所を確保する、お祈りのために手や足を洗う場所を設けることなどがあります。

食物のハラムは以下の通りです。

  1. 豚と豚由来のもの
  2. 犬と犬由来のもの
  3. アルコール

上記以外のものはハラルですが、厳密に言えば、牛、山羊、鶏はの方法に以下の規定があります。
イスラム教徒がをすること。特別な祈りの言葉を述べること。鋭利な刃物で動脈を切って死ぬまで血を抜くこと。血を抜ききる前に死んだ場合はすなわち死肉となり、ハラムとなります。した動物はイスラム教徒の検査員による検査を受ける必要があります。
基本的に一次産業の産物(穀物、野菜、果物、水産物、卵)はハラルとされています。ハラムである「豚由来のもの」には、ショートニング、ゼラチン、コラーゲン、インシュリン、レンネット、豚の腸や血液を使ったソーセージ、豚毛のブラシや歯ブラシなどがあります。

イスラム教は、絶対にしてはいけないことと、絶対にしなければならないこと以外は、モスリムそれぞれの考え方に任せる部分があります。ハラル対応を行なう側にも、段階的な対応が可能ということです。

具体的なハラル対応を考える前に、ハラル市場がどれくらいの規模かを知っておく必要があります。ごく小さな市場であればハラル対応の費用対効果は乏しいと判断されます。
日本に在住しているモスリムは2013年度で約18万5千人と言われています。来日する外国人観光客の総数は年間で2,000万人で、現在はそのうちの200万人が中国韓国からの観光客で、モスリムは40万人程度です。しかし2020年にはモスリムだけで200万人になるのではないかという予想(希望的観測?)があります。

世界のハラル市場は年間310兆円程度。そのうちの食マーケットは60兆円程度です。
インドネシアは人口2億5千万人の90%がモスリムです。富裕層は人口の1%強の約253万人です。日本に観光に来ることができるのはこの1%強の富裕層と考えられます。

延べ200万人のモスリム観光客が来日中に外食でひとり5万円を使うとしたら、1,000億円の市場となります。外食産業全体の市場規模は、20世紀末に30兆円にあと少しまで迫ったものの、現在は23兆円程度に落ち着いています。給食関係も入った数字なので、外食としての飲食店の市場は約12兆円程度です。1,000億円は飲食店の市場規模からすると120分の1です。
店舗数300店舗、年間の客数1,500万人のチェーン店だとモスリム観光客は年間で12万5千人となり、客単価2,000円とすると2億5千万円の売上となります。材料費と人件費を合わせたプライムコストを60%としたら、年間の売上総利益は2億5千万円×40%で約1億円となります。1億円の粗利しかないとなると、チェーンストアとしては手が出しがたいかもしれません。

ハラル対策がもっとも進んでいるのはマレーシアです。マレーシア政府ハラル認証機関(JAKIM)があります。JAKIMは宗教色の強い組織で、現在ではハラル認証関係は民間会社のハラル産業開発公社(HDC=Halal Industry Development Corporation)に移行しています。
日本ではハラル認証機関を名乗る団体が15団体程度確認されていますが、届出制も許可制もなく、組織形態の規定もありません。日本の法律に基づく根拠がないので、権威や信用、保証もありません。モスリム対応をするのに、認証は必要ではないのです。しかし団体の中にはモスリムが所属している団体もあり、日本のハラル認証機関が認証したという表示をすることは、モスリムに訴求する面では有効に働く場合があります。

食物のハラムは豚、犬、アルコールの他にグロテスクなものやゲテモノも含まれています。日本では高級食材のスッポンもモスリムは食べられません。また牛や鳥、山羊も、どんな餌を与えていたのか、飼育環境はどうだったのかといった畜産に関する全般や、後の倉庫の状態、運搬する車両、運転手などについてもハラルでなければなりません。厳格なモスリムの中には、日本では何も食べないという人もいます。

日本の公的機関がハラル認証について届出や許可の制度を作ろうとしないのは、ハラルの基準が非常に厳しく、認証した店舗なり企業なりを厳格に取り締まることが非常に困難であるという理由によります。認証した店舗がハラルに違反してしまうと、認証した期間は権威も信用も失ってしまいます。公的機関がそうなるのは許容しがたいので、日本の公的機関ははハラルに関して腰の引けた対応となっています。他国の宗教上の戒律を観光客受け入れの制度として確立するのは困難です。

以下の条件を考えると、完全なハラル対応は日本国内では非常に困難であると言えます。

  1. アルコール非提供。
  2. 食材は生産から保管、物流、調理までハラル対応のもののみを使用する。
  3. 食材以外にも調味料、調理器具、厨房、調理人まで、ハラル対応でなければならない。
  4. 全体をイスラム教徒が管理する。

以上の4点を想定しただけでも、国内での厳格なハラル対応は不可能と断定できるでしょう。そこで厳格でないハラル対応がいくつか考えられています。

  1. ノンポーク(豚肉の取り扱いなし)
  2. ハラルの肉だけを使用する。
  3. ハラルの食材だけを使用する。
  4. お酒はモスリム以外だけに販売する。
  5. ローカルハラル(ハラルとノンハラルを分別、お酒は販売)

これらの対応は、モスリムによっては不快感を抱く人もあるようで、最初からハラル対応はできませんとしたほうが、あらぬ苦情を生まないで済むかもしれません。レトルトパウチの食材を湯せんで温めて皿に盛りつけて、ハラル対応の商品ですと提供するような商売は、モスリムに対して誠実な対応をしているとは言い難い気がします。

ホテルのように宿泊費で稼げる業態はハラル対応の費用対効果が認められますが、飲食店は費用対効果がほぼ認められないと考えていいでしょう。ハラル対応の飲食代金が通常よりも5倍から10倍も請求できるのであれば費用対効果が認められるでしょうが、モスリムが納得して支払うとはとても思えません。


歩き方について

2015年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ、自分の体の動かし方がやたらに気になるようになりました。中でももっとも気になるのが歩き方。どのような歩き方が体にいいのか、足を動かしながら体と相談するように歩いている今日この頃です。

10年ほど前に腰を痛め、現場勤務から本社勤務に異動となりました。腰痛は治りもしませんが、ひどくなりもせずに10年が経ちました。現場と違ってデスクワーク中心なのでどうしても太ってきます。運動不足であることは間違いないと思います。
とはいえ、ジムに通ったり、早朝や夜にランニングするのはかなり億劫だし、続きそうにありません。続かないことはしないことと同じです。無理せずに続けられる運動というと、歩くことが一番です。通勤や営業、セミナー出席、現場視察や展示会、出張など、仕事で歩かないことはありません。歩き方を工夫すれば痩せられる気もしますし、腰痛も改善される気がします。

新聞やテレビで歩き方について誰かがレクチャーしているのはいろいろ見ました。デューク更家さんでしたっけ?シュッシュッって言いながら歩く人。最近テレビでは見ませんが、どうしているんでしょう。あの人の大げさな歩き方は日常生活ではちょっと無理です。いや、できる人もいるかもしれませんが、私には無理です。通勤のときにスーツを着た人が手を上に挙げて体を傾けながら歩いていたら、私だったらちょっとよけますね。

ということで、見た目はまったく普通に歩いているようで、実は普通よりも負荷のかかる歩き方をするというのがポイントでした。テレビ(たしか、ビートたけしの家庭の医学という番組だったと思います)で医者が推奨していたのが、いつもより少しだけ歩幅を広げる歩き方です。そうするとエネルギー消費が多くなるらしい。
早速やってみましたが、足を多めに前に出そうとするのでどうしても前のめりになります。大袈裟に言えば、屈んだままドタドタと歩いている感じになります。かといってドタドタ感をなくそうとするとあまり足を前に出すことができません。多分ですが、人にはそれぞれに向いている歩き方というものがあって、少しだけ歩幅を広げる歩き方は、それを推奨しているお医者さんには向いていたのでしょう。私には継続するのが難しい歩き方でした。

そこで自分なりの歩き方をいろいろ考えてみました。
いま一番継続できているのは、後ろ足を意識する歩き方です。特に踵ですね。後ろ足の踵をなるべく地面につけたまま、脚を真っ直ぐに伸ばす歩き方で、前に出すほうの足はあまり意識しません。それでも自然に歩幅が大きくなります。後ろ脚の膝の後ろも伸びるのでストレッチにもなります。
階段ではつま先のほうだけをつけて、踵は宙に浮いた状態にします。そして脚をまっすぐに伸ばします。平坦なところを歩いている以上に膝の後ろが伸びます。
後ろ脚を伸ばすときに、お尻の筋肉が使われているのがわかります。また、後ろ脚を伸ばすことで自然に腹筋を使って前の足を出すようになりました。

脚と足で非常にわかりにくい文章になってしまいましたが、しばらくこの歩き方を続けてみようと思います。


気づかないで迷惑をかけている心配

2014年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム

物凄く臭いカバンの臭いを嗅ぎました。

私は電車ではあまり座らないのですが、腰痛がひどいときに電車に乗ると、席が空いていれば座ります。
先日、電車に乗ってシートの端に座ったとき、隣に立った人のカバンがひどく臭いました。ショルダーバッグです。その人が座席の仕切りに寄りかかったときに、カバンが仕切りを越えて私の目の前にきた途端に、物凄い臭いがして思わず顔をそむけてしまいました。何日も履いている靴下の臭いのかなりひどい部類の臭いです。こんなカバンを持ち歩いている人は多分相当に汚い部屋に住んでいるだろうと容易に推測できました。

振り返って自分のカバンはどうなんだろうかと確認すると、あまり臭いはしません。買ってからまだ3ヶ月ですし、有機物は入れないので大丈夫なのかなと思いました。他のカバンについても、あまり臭いはしません。しかし、自分の臭いはあまり気にならないものですし、本当に臭いがしないかどうかは客観的にはわかりません。日頃自分のカバンの臭いにあまり頓着していないのもたしかです。これまでに使って捨てたカバンも数多くありますし、それらが臭って人に迷惑をかけていたかもしれません。

人のふり見てわがふり直せと言いますが、カバンの臭いに限らず、自分でも気がつかないところで人に迷惑をかけてきたのだとしたら、ここで謝罪したい気持ちです。これからは周囲に十分気を配って、空気のように生きていきたいと思います。

俳優の高倉健さんが亡くなったと報道がありました。
高倉健さんの人となりについてはよくわかりません。一昨年観た映画「あなた」の印象が最も鮮明で、そこではごくごく一般的な老齢の男性を演じていました。同じ時期に上映されていたハリウッド映画の「アベンジャーズ」のキャッチコピーが「日本よ、これが映画だ」というものでしたが、「アベンジャーズ」は映像の迫力以外は内容が空疎で、アメリカ人の中身のなさを感じるものでしたが、「あなたへ」は逆に地味な映像でしたが内容が豊かな映画で、私はeiga.comのコラムに以下の感想を寄せました。

高倉健が演じる実直で謙虚で無欲な主人公の心模様がストレートに伝わってきて、涙が流れっぱなしでした。思い出しても、健さんの渾身の演技に涙が出てきます。本当に凄い俳優さんです。
世の中の奥様方に、ご夫婦でご覧になることを強くおすすめします。その理由は、観ればわかります。
健さんが海に散骨したあと、猟師ふたりが手を合わせて海に祈る漁船が夕日に映えるシーンは、映画ならではの素晴らしい映像でした。
こういう繊細な心模様の映画はガサツなアメリカ人には理解できないのかもしれませんが、ひとこと言わせていただければ、「アメリカ人よ、これが映画だ」
以上です。 

地上波でも放送されていましたが、公開されたときに映画館で観ていて本当によかったと思いました。

さて、健さんが亡くなったニュースを聞いて、まず「うらやましいなあ」と思いました。あんなふうに死ねるものならそうしたい。痴呆症になったり植物人間になったりして人に迷惑をかけることを、私は最も怖れています。痴呆症や植物人間になったら自分で死を選ぶことができないのが一番怖ろしい。そうならないうちに、変な言い方ですが、元気なうちに死んでしまいたいと切に願います。


「成功」という言葉に対する疑問

2014年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
以前から、「成功者」や「成功した人」という言葉に疑問がありました。

「成功」という言葉だけなら、割とわかりやすい。作戦が成功したとか、プレゼンテーションは成功するだろうとか、要するに「うまくいった」「うまくいく」ということが「成功」の意味ですよね。
ところがこれが人間に対して使われると、途端に胡散臭くなります。成功した経営者、成功したスポーツ選手、成功したタレント、成功した政治家などです。これらはみな、その職業でお金をたくさん稼ぐことができた、という意味のように感じます。お金をたくさん稼ぐことができた人が「成功者」であると定義してもいい。極論ではないと思います。みんな普通にその意味で使っているのではないでしょうか。
そして、成功するためのノウハウ本が巷に溢れ返っています。「成功者」=金持ちという図式なら、金持ちになるためのノウハウ本ですね。そういう本が売れるということは、世の中、金持ちになりたい人だらけだということです。それはそうでしょう、私もできることならたくさん金がほしい。しかも楽をして稼ぎたい。

しかし人間の幸せはお金だけなのでしょうか。

ある会社では以前、年明けに全国の店長やエリア長を集めて新春の集いを催していました。社長が挨拶をして優秀店の表彰をしたりする、よくあるあの集まりです。その中で、会社に寄生しているようなコンサルタントのオバチャンが挨拶の言葉の中で「お金があることが幸せということ」「仕事とはお金をたくさん稼ぐこと」「お金を稼がない人は仕事をしているフリをしているだけ」という内容を滔々とまくし立てました。
これには全国の店長は呆れ返ってしまい、結局新春の集いはその年を最後に二度と開かれることはなくなりました。オバチャンは自分のせいで新春の集いがなくなってしまったとは自覚していませんし、誰もそのことを本人に言いません。言ったところで理解するはずもなく、一元論のヒトラーみたいなババアですから、逆に諫言した人を間違いなく罵倒するでしょう。
このオバチャンは時々テレビに出て臭い芝居で商品をヨイショしています。そこからの収入もあるでしょうが、収入の大部分は会社から自動的に振り込まれる高額のコンサルタント料です。マンションは会社名義のものですし、賃貸している広い面積の一部を個人事務所にもしています。月々の家賃はもちろん会社が支払っていますが、本人は当然と思っています。住んでいる人が出席しなければならないマンションの会合があったとき、本人に事情を説明して出席をお願いしても、お願いした総務の女の子が激しく叱られていました。そういうのは会社でやってよね、と。ひどい話です。人の話は聞かず、感謝の気持ちは1ミリグラムも持ち合わせていないこの銭ゲバのオバチャンも、世間では「成功者」「成功した人」に分類される訳です。

いつも不機嫌なこのオバチャンは、何かというと人の欠点を非難し、失敗をあげつらいます。レストランに行っておしぼりを手渡しされると「それはあなたが使ったから、もう私は使えない」とおしぼりを受け取りません。渡した人の手の黴菌がついているという意味なのでしょうが、あんたの手には黴菌がまったくいないのか、と聞きたくなりますね。
ゴータマシッダルタは食中毒で亡くなりました。一説によると、善良な信者から食べ物をもらい、それが腐っていると分かったが、相手の気持ちを慮って黙って食べたのが食中毒の原因となったそうです。食中毒で死んでも、相手の気持ちを素直に受け取ることが釈尊の魂にとって幸せだったのでしょう。

控えめに出席をお願いする事務員を罵倒し、おしぼりを手渡ししてくれる店員の親切心を踏みにじるオバチャンが「成功者」なら、私はあまり「成功者」にならなくてもいいかなと思います。

ノンアルコールビールについて

2014年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

店舗によってはノンアルコールビールを売っているところがあります。ノンアルコールビール以外にもソフトドリンクはたくさんありますが、ビール会社の意向もあって、置かざるを得ない店もあります。
ノンアルコールビールは各ビール会社が販売に力を入れているようで、テレビCMには有名タレントが起用されています。

サントリーオールフリーは山口智子
サッポロプレミアムアルコールフリーは桑田佳祐、アサヒドライゼロは石川遼、キリンフリーは小泉今日子、藤本美貴、阿部サダヲ。

いずれも好感度の高い人たちばかりで、これらの人たちが愛飲している商品は、品質や安全性にすぐれているのではないかと思ってしまいます。しかし本当にそうなのでしょうか。
たとえばキリンフリーは宣伝文句を見ると「無添加」とあります。しかし原材料をよく見ると次のようになっています。

麦芽、糖類(果糖ぶどう糖液糖、水あめ)、ホップ、酸味料、香料。

このどこが「無添加」なのでしょうか。いえいえ、「無添加」なのです。「無添加」とは、食品添加物に分類されているもの、表示義務があるものを入れていないということで、食品添加物に指定されていないもの、表示義務のないものはいくら入れても「無添加」と表示することができるのです。肝心なのは、「表示することができる」という点でして、表示しなくてもいい訳です。果糖ぶどう糖液糖は物凄くたくさんの糖質を含んでいます。その点で言えば、「無添加」と表示することは景品表示法の優良誤認に当たらないとも言えません。良心のある会社であれば「無添加」とは表示しないでしょう。
キリンビールはそういう会社だということです。キリンビールの社員の10歳以下の子供たち全員に、これから5年間、毎日キリンフリーを飲むように義務付けたらいかがでしょうか。果糖ぶどう糖液糖で高血圧や糖尿病になる子供が増えるかもしれませんが、それはキリンフリーとは無関係なんでしょうね。なにせ「無添加」なのですから。あるいは、酸味料と香料に含まれる発がん性物質で白血病になったり腫瘍ができたりする子供が増えるかもしれません。しかしそれもキリンフリーとは無関係です。なにせ「無添加」なのですから。

私はノンアルコールビールは飲みません。お金をどぶに捨てるようなものだし、そのお陰で身体を悪くしたら、お金を出して病気を買うようなものです。そして飲食店にそういう危険な飲料を置かせるビール会社と、「無添加」だという宣伝を迂闊に信じてノンアルコールビールを飲む消費者。

昔、鶴田浩司が歌いました。
右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の絡み合い、どこに男の夢がある。

男の夢は置いといて、馬鹿と阿呆の絡み合いがこの世の中のほとんどなのであるというのはいつの時代も真実なんですね。やれやれです。


ブログの引越し完了

2014年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
ブログ人が2014年の11月でサービスを終了するということで、gooブログに引っ越しました。引っ越すのはややこしいのかなと思っていましたら、gooのアカウントを取得、ブログを開設、ブログ人の引越しをクリック、準備のメールを待ってブログ人のページの引越しをクリック。それで引越しが完了しました。全部で10分ほど。
さて、gooブログの使い勝手はどうなんでしょう。ブログ人はページが物凄くすっきりしていて気に入っていたのですが、gooは広告がたくさんあって、しかもブログの管理人が書いたように勘違いされる文言もたくさんあって、前途多難な気がします。

味噌について

2013年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
実はトン汁が大好きで、自宅でよく作ります。長崎から戻った人からもらった味噌がありまして、その味噌で作った味噌汁がとにかく美味しい。味噌汁は味噌の味が本当に大事です。
昨日もまたトン汁を作ろうとしましたが、ちょうどその味噌が終わってしまったのでイオン系のスーパー「まいばすけっと」でトン汁の材料と共に味噌も買おうと棚の味噌を見ていたところ、何か違和感があって買うのをやめました。

違和感というのは、味噌が常温の棚で陳列されていたことです。

かつて田舎の家では味噌は棚の下の薄暗いところに桶みたいな容器に入れられて保存されていた記憶があり、従って常温での保管はおかしくないかもしれないのですが、それでも棚に並んでいる味噌を見て違和感を感じたので、「まいばすけっと」では買わないことにしました。そして近くの成城石井でちょっと値段の張る味噌を買いました。こちらではちゃんと冷蔵の棚に陳列されていました。

その後、味噌について調べてみますと、どうやら成城石井で買ったのが正解だったようです。ゲーテは「直感は誤らない、誤るのは判断のほうである」と言っています。直感は大事にすべきなのかもしれません。

http://www.aokimiso.co.jp/premium/chilled_brand/fresh_miso.html

リンク先の味噌屋さんが言いたいことを簡単にまとめると、酵素や酵母が生きている味噌と、パック詰めのために殺してしまった味噌があり、しかし表示義務がないので見分け方にコツがいると、そういうことですね。これがホントの手前味噌?
とにかく勉強になりました。


「山のロザリア」の真実

2013年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

中学校の音楽の教科書にも載ったことがあるロシア民謡「山のロザリア」ですが、知る人ぞ知る歌手の八反安未果(ハッタンアミカ)さんが素晴らしい歌声で歌っています。その歌詞は次のようです。

山の娘 ロザリア いつも一人うたうよ
青い牧場日昏れて 星の出るころ

帰れ帰れ も一度 忘れられぬあの日よ
涙ながし別れた 君の姿よ

黒い瞳 ロザリア 今日も一人うたうよ
風にゆれる花のよう 笛を鳴らして

帰れ帰れ も一度 やさしかったあの人
胸に抱くは形見の 銀のロケット

一人娘 ロザリア 山の歌をうたうよ
歌は甘く哀しく 星もまたたく

帰れ帰れ も一度 命かけたあの日よ
移り変わる世の中 花も散りゆく

しかし、ダークダックスが歌っている「山のロザリア」の歌詞は次のようです。

山の乙女ロザリア 一人さびしき山小屋の
貧しきその身はひとすじに 愛の誠を

すずらん香る山陰の 谷間に春のおとなわば
哀れ小さなその胸に 恋の花咲く

清き夏の朝に 山に傷つく若者の
永遠の眠りにつけるをば 風は伝えぬ

乙女の憂い星は知る 今宵山の頂に
あおくやさしく輝きて そっといたわる

哀れ山のロザリア 雪と氷の奥深く
恋せし者の後を追う 春に背きて

逝ける乙女の胸の内 すずらん知るや知らずや
いまも五月の山肌に 真白きその花を

いかにもロシア民謡らしい、救いのない歌詞ですよね。しかしその救いのないところが素晴らしい。
清く貧しく美しくそして孤独に山宿を営んで暮らしていたロザリア。春に若者が尋ねてきてロザリアはたちまち恋に堕ちてしまいます。恋を育む暇もなく夏山で遭難死した若者。嘆き暮らしたロザリアは翌年、春を待たずに雪山に分け入って星空の下に身を横たえて死んでしまうのです。ロザリアの心を知ってか知らずか、すずらんが五月の山に白く咲いています。


食べログのクレーマー

2012年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
食べログというグルメサイトに口コミを書いています。
少しばかり店舗に対して批判的な口コミをしましたが、その口コミに対して、私を名指しで反論する口コミが入りました。そして私の食べログの個人ページのコメント欄にも同じ内容の書き込みがありました。

早速「個人攻撃を受けました」と食べログに通報。その日の内に消されました。

http://megalodon.jp/2012-0601-0950-24/r.tabelog.com/tokyo/A1317/A131705/13141044/dtlrvwlst/4191712/

この店の関係者なのか、それともよほど親しくしているのか知りませんが、かなり感情的な文章です。誰もが見ることのできるサイトに投稿するときは、腹立ちの感情は一旦覚まして冷静になってからが望ましいのですが、怒りにまかせて書いてしまう人がいます。後で冷静になってみたときには既にブログが炎上したりします。それがネット社会の恐ろしいところでもありますね。

それにしてもこんな人の意見がまかり通るなら、飲食店にとって不利な情報を出してはいけないことになり、食べログ本来の「実際に食べてみた人の率直な感想が読める」という意義が失われてしまいます。
私のことを「食べログの在り方を勘違いしている典型的な人」と書いていますが、この場合の典型的という言葉の使い方がよくわかりません。ある事象に関して、様々な事例がある場合、最もその事象の本質が現れている事例を「典型」と呼ぶのだと思っていました。本質があまり現れていない事例を「類型」と呼びます。「典型」とは「類型」の対義語なのです。
さて「食べログのあり方を勘違いしている」という事象について、私が「典型」であるなら、その本質はどのようになるのでしょうか。また、類型にはどのような事例があるのでしょうか。
そのあたりの論理的な思考が、この「シンザンモノ」なる人には欠落しています。
ただ感情的に「食べログの在り方を勘違いしている」と書く。
それはつまり、この「シンザンモノ」という人にとっての「食べログの在り方」なのであって、一般的な考え方とは違ったものなのだということです。一般的には、前述したように「実際に食べてみた人の率直な感想が読める」また「実際にテーブルに出た商品が写真で見れる」ということが食べログの意義なのではないでしょうか。「意義」という言葉の方がわかりやすいし、食べログというサイトの「在り方」については運営側の考えることで、状況の変化によって「在り方」も見直されていくと思います。

食べログの意義を全く理解していないのは、恐らくこの「シンザンモノ」なる人でしょうね。もう少し論理的なものの考え方をした方がいいと思います。


食べログの不思議発見

2011年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
次の3つの写真を見比べてみてください。

http://r.tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13013636/dtlrvwlst/3007623/8667652/
http://r.tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13013636/dtlrvwlst/3004151/8655663/
http://r.tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13013636/dtlrvwlst/3334100/9814434/

これらは、外苑前のある飲食店についての食べログの記事に掲載されていた料理写真です。別々の人が別々に行って食べたときの写真の筈ですが、私には同じ写真に見えました。みそ汁の豆腐や葱の位置、割り箸の割れ方、大根おろしにかかった小葱の小口切りの位置など、全部そっくりです。これを違う写真だと言い張るのはかなり難しい。

何故これに気づいたかというと、店舗の総合点数が3.34しかないのに、ブロガーさんたちがつけている点数が3.5から4.0とかなり高かったからです。しかも100軒以上の店舗の口コミを書いているブロガーさんたちなので、普通ならこの店の評価は3.5から4.0の間になる筈です。にもかかわらず、店の評価が3.34というのは、食べログ側が特別なロジックを働かせているからでしょうね。

食べログのロジックには感心しますが、ブロガーさんたちの姿勢には感心できません。食べログの記事の信頼性が損なわれるので、食べログを頼りに店を決めることが多い当方としては、困ったものです。

ブロガーさんたち、と書きましたが、ひとりの人(もしくは組織?)がいろいろな名前で食べログ会員になって口コミを書いているという可能性もありますね。お店はこのことと無関係であると祈りたい気持ちです。