三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

求めないこと

2010年02月27日 | 政治・社会・会社

中原中也の詩のひとつに「秋日狂乱」という詩があります。「僕にはもはや何もないのだ」という嘆きからはじまり、「ヨーロッパは戦争を起こすのか。誰がそんなことわかるものか」と世の中に疑問を投げ掛け、最後は「何にも何にも求めまい!」という諦めや悲壮感の入り交じった、決意のような宣言のような言葉で終わります。

かつてJFケネディが「国家が国民に対して何ができるかではなく、国民が国家に対して何ができるかが重要だ」と言い、当時の米国民の多くが熱狂的にこの言葉を支持したことがありました。やっぱりアメリカ人は昔からどうかしています。

共同体や組織の中の個人が共同体や組織と自分とを一体として意識し、文字通り運命共同体となることを「同化」と呼び、逆に同化の意識または前提について、それらを疑ってかかり、相対化することを「異化」と呼びます。ガンバレニッポンと連呼する応援は同化そのもので、応援する相手がスポーツ選手でも軍隊でも同じことです。
すべての共同体及び組織は同化を善とし、異化を悪とします。愛国者は善で、そうでない者は非国民であり悪なのです。同化は共同体の存続にとってプラスのベクトルに働きますが、共同体の暴走にとってもプラスに働きます。戦争をはじめようとする国家首脳部の方針を国民が熱狂的に支持した場合は間違いなく戦争に向かって一直線に突き進むでしょう。
それに対して異化は共同体や組織に対して自分を切り離して考えることで、共同体や組織の暴走を止める方向にベクトルが働きますが、同時に共同体や組織の発展にとってマイナスの要素となります。もちろん戦争状態の国家にとってもマイナスです。犯罪も異化のひとつであり、共同体は異化を排除する方向に動きますから、どんな共同体でも内部の犯罪は禁じられます。つまり、法律や規範は共同体がその存続のために異化を排除するために作られたものなのです。
人類の共同体の歴史は同化と異化を内包して常にどちらかに傾きながら、共同体自体を内側から変えてきた変容の歴史でありました。同化がエスカレートすると国家主義や国粋主義となり、そういう人々が権力を持つと極端なまでに異化分子を排除するようになります。そして同化を推進する政策を実施すると同時に、その過程で生じた個人のストレスが共同体の指導層を攻撃の対象としないように他の共同体を悪に仕立て上げる方向に動きます。戦争へと向かう動きです。
安倍晋三のような政治家が同化推進型の典型で、同化型は基本的に臆病ですから自分が攻撃されることに耐えられず、常に他に悪者を示して攻撃を避けようとします。北朝鮮を敵視したのはそのためで、決して拉致被害者を救おうとした訳ではありません。

日本人は政治に淡白な国民で選挙の投票率にもそれが如実に現れています。アメリカ人とは逆に国家に対して何も求めない傾向の強い、羊のような国民です。役人はいまだに「お上」であって「お上には逆らえない」「お上の言うことだから仕方がない」という諦観を持つ人は少なくないと思います。また他人と厳しい交渉をしたことがないので、人の発言の真の意図を探ろうとせず、言葉の通りに受け取ってしまいます。つまり他人の言うことを簡単に信じてしまう傾向があるのです。
だからテレビや新聞の報道をそのまま鵜呑みにしてしまう。太平洋戦争のときに「勝った、勝った」だけの大本営発表をそのまま報じ、そしてその報道を盲目的にそのまま信じたのは、軍の騙しや圧力のせいではなく、日本人の本質によるものなのです。そして「お上」に逆らわないのと同じくらい、他人に対しては要求が激しい。選挙にもいかないくらい国家に対して何も求めないのに、自分が客となったときの要求は、そこまでするかというくらい欲深いものがあります。料理が遅くなった、愛想が悪いといったことで、その従業員が死ぬまで許さないほどの不寛容さ、心の狭さがあります。そういう人をたくさん相手にしてきました。信じられないようなクレーマーが本当に存在するのです。

JFケネディの言葉を熱狂的に支持するアメリカ人と同じくらい、日本人にも同化の傾向があります。実は人類全部が、異化よりも同化の傾向が圧倒的に強い。どの国民も共同体の中で同化の教育を受け、あるいは強制され、または虐げられてきた歴史があります。その歴史は人々の精神に強烈な影響を与えたはずです。祖国や母国といった言葉は、様々な思いを呼び起こしますが、それは共同体の歴史の中で形成されてきたものであって、人間が持って生まれたものではありません。異化は祖国や母国、愛国心といった概念を相対化し、これらの呪縛から人間を解放します。そうなると共同体としては非常に困る訳です。だから非国民と呼んで弾圧する。戦時中の日本ではとなり組を作って互いに監視させていました。政府が弾圧しなくても互いに様子を探り合って、互いに非国民と罵り合う国民ですから、国家にとってこれほど楽な国民はいません。

中原中也は明治に生まれて昭和の初めに亡くなりました。ずいぶん前にも紹介しましたが、「憔悴」という詩の中で次の一節を書いています。

さて、どうすれば利するだろうか、とか
どうすれば哂(わら)はれないですむだろうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、

中也が亡くなってからほぼ百年後の現在ですが、世の中はちっとも変わっていません。むしろ悪くなった印象です。共同体の思惑に蹂躙されて、誰もが心に深い闇を抱えたまま他人の不幸だけを祈る怪物になっていくのでしょうか。
共同体は個人の精神のありようを、共同体の中でしか充足感を得られないような方向にもっていきます。どんな共同体も同じです。他人に何も求めず、犀の角のように独り歩むのは本当に難しいことなのです。