映画「ひとよ」を観た。
https://hitoyo-movie.jp/
親と子は別々の人格である。それぞれに基本的人権がある。だから平等で公平な関係でなければならない。主従関係でもなく、支配と隷従の関係でもないのだ。民主主義が進んでいるヨーロッパでは、親と子が人間同士として対等の関係であるという意識がある程度浸透していて、言うことを聞かないからといって子供に暴力を振るう話はあまり聞かない。
日本は封建主義の精神性がいまだに残っていて、目上の人間という言い方がある。目上の人間を想定するということは目下の人間というものが大義的な存在として想定されているわけで、明らかに差別的な精神性である。差別は形式や作法、礼儀などといった考え方にも通じていて、例えば上座という考え方があり、床の間に限らず、エレベータの立ち位置や飲食店の席でも上座が存在する。おまけにそれを教えることを商売にしている人間さえもいる。差別を商売にしていることが当然のように受け入れられている日本社会は、社会全体が差別構造になっているのだ。
子供の口の利き方や表情について「親に向かって何だ」という非難をする親がいる。「親に向かって」という言葉自体が差別だ。「誰に物を言うとるんじゃ」というヤクザの言葉と同じである。自分が上で相手が下という差別だ。「親に向かって」という言葉を使う親は、差別を子供に植え付ける。「親に向かって」という言葉で暴力を受けた子供は、大人になって子供が出来たら、同じように「親に向かって」という言葉で子供を差別し、人権を無視して暴力を振るう。差別の世襲である。
親が子供に愛情を覚えるのは、飼っている動物を可愛いと思うのと同じである。犬にも猫にも子供にも名前を付ける。名前を付けるとそれに対する愛着が生まれ、愛着している対象との関係性が幸福感を齎す。ものを収集する人の精神構造も同じだ。ゴータマ・ブッダは愛着を、解脱を阻害する煩悩として否定した。
田中裕子は不思議な女優さんだ。どこまでも人を受け入れる母性のような独特の雰囲気がある。母性というのは無条件の愛情だ。封建的で高圧的で暴力的な父性とは対極にある。父性というのは組織の論理のひとつで、子供が共同体に受け入れられるように従順性を植え付ける。それは同時に個性を殺すことでもある。思春期で主体性が芽生えると父性に反発するようになる。そのときに母親が父親から子供を守らないと、子供は歪んだ性格のまま、父性を継承して封建的な人間になる。
本作品は田中裕子演じる母親が父性の暴力に対して行動を起こすシーンからはじまる。それに対して差別社会である日本社会がどのような働きをしたかが描かれる。そしてそういう中での兄妹の振る舞いが物語の中心である。母親の行動は是だったのか非だったのか。
三兄妹はそれぞれにいい演技だったが、特に長男を演じた鈴木亮平がいい。吃音の演技も自然で、父親への憎しみ、家族に抱く愛情、長い間押さえ付けてきたコンプレックスなどがじわっと伝わってくる。生きてくるのが大変だっただろうなと思う。
本作品のテーマは多岐に亘っていると思う。そのひとつが親と子の関係性についてであり、田中裕子が母親の家族、佐々木蔵之介が父親の家族、それに筒井真理子が娘の家族の3つの家族を描くことで、共同体と家族の関係性と家族間の関係性の対比を描く。
佐々木蔵之介は少し無理のある設定ではあったが、力業で役にしてしまった。凄い演技力だ。流石である。筒井真理子もベテランらしく、娘と母親の一夜を演じた。
三者三様の一夜(ひとよ)を描くこと、そして共同体の中の家族を描くことで、日本社会の構造を縮尺してみせた白石監督の名作である。