三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「8時15分 ヒロシマ 父から娘へ」

2021年08月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「8時15分 ヒロシマ 父から娘へ」を観た。
 
 原子爆弾の構造について小学生の頃に学校の図書館で調べたことがある。一番の衝撃は爆発の熱が理論的には摂氏5000万度に達すると書かれていたことだ。実際の原爆は中心部で摂氏250万度、地表で摂氏3000度くらいだったようだが、それでも想像の出来ない温度である。本には人体に長期的な悪影響を及ぼすガンマ線が広範囲にわたって照射されるとも書かれていた。
 
 それほどの熱と放射線を発出する巨大なエネルギーを、民間人が多く住む市街地へ投下した理由は何か。当時の日本の軍部の徹底抗戦の方針は暗号を完全に分析していたアメリカに伝わっていた。このままでは日本全土が焼け野原になってしまうまで、日本の軍人は抵抗するだろうとアメリカ側は懸念した。そこで民間人の犠牲を出してでも原子爆弾を使用して、軍事力における彼我の差を明確に知らしめ、日本に負けを覚悟させる必要があった。加えて、連合国内の力関係もあり、いち早く核兵器を開発したアメリカがその威力を列強に見せつける目的もあった。つまり軍事的、政治的な思惑で原爆は投下された訳である。人道的な見地との葛藤もあったようで、必ずしもアメリカの思惑は一枚岩ではなかったが、最後はトルーマン大統領が決定を下した。そのように言われている。
 
 そんな原爆に至近距離で被爆した美甘進示(みかもしんじ)さんは、原爆を落とした人を責めるつもりはすこしもないと言う。パイロットはエノラ・ゲイを命がけで飛ばして広島までやってきたと彼は言う。おそらくではあるが、進示さんの言葉を敷衍すると、大統領の意思決定からエノラ・ゲイがヒロシマでリトルボーイを投下するまでに多くの人々が関わっているが、そのすべてを責めないという意味だと思う。
 起きている事態は戦争なのだ。戦争だから何をやってもいいという訳ではないという議論はある。しかし東アジア及び東南アジアで日本軍がやってきた残虐行為は、戦争だから何をやってもいいという訳ではないという議論で言えば、非難の対象である。原子爆弾もまた然りだ。
 
 許すことは許してもらうことでもある。戦争は許さない心が始める。許さないことは許してもらえないことである。つまり寛容の相手は寛容または不寛容だが、不寛容の相手は不寛容しかない。進示さんの言葉は重い。寛容は不寛容に対しても寛容でなければならない。人類がその覚悟を持ったときにはじめて、戦争がこの世から姿を消すのかもしれない。

映画「アウシュヴィッツ・レポート」

2021年08月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アウシュヴィッツ・レポート」を観た。
 クラシック曲をときどき聞く。年に何度かはクラシックのコンサートやリサイタルに出かける。毎年出かけているオーチャードホールのニューイヤーコンサートでは必ず「ラデツキー行進曲」が演奏される。作曲はヨハン・シュトラウス一世だ。「美しく青きドナウ」も屡々演奏される曲である。こちらはヨハン・シュトラウス二世の曲である。いずれもオーストリアのウィーンの音楽家だ。
 本作品ではアウシュヴィッツで音楽が演奏されていたことが紹介される。前述の2曲も演奏されていた。クラシック好きとしては軽いショックを受けたが、戦場ではないアウシュヴィッツのような場所を管理するナチス親衛隊にも、ストレスを発散させる機会が必要だったのだと理解した。
 本作品は事実に基づいているとのことだ。当方は不勉強にして、アウシュヴィッツで何が行なわれていたのか、本作品を観るまで知らなかった。ただユダヤ人が機械的に収容されて番号の入れ墨を入れられ、順番にガス室で殺されているのだと思っていた。しかし収容されたのはユダヤ人だけではなく政治犯やホモセクシュアルなどもいた。生物化学兵器の実証実験の検体となって殺された人々が数多くいた。それ以外にも逃げようとしたり歯向かったりしてその場で銃殺された人もいたようだ。中には門の梁に吊るされて、時間をかけて縊死した者もいた。
 収容所を脱出した二人の若者の言葉が印象深い。
 こうしている間にも刻一刻と人が殺されている。
 アウシュヴィッツの人々が望むのは空爆によって収容所が破壊され、自分たちも死ぬことだ。
 大事なのはこの事実を知って何をするかだ。
 二人の若者が情報を託すべきは本来は全世界の人々である。そのためには財力のある者、多くのコネを持つ者に一旦預けるしかない。若者たちのもどかしさと苛立ち、そして不安をこちらも共有した。
 情報は全世界に行き渡っただろうか。我々は中学校の歴史でアウシュヴィッツで何が行なわれていたかを学習しただろうか。少なくとも当方にはその記憶はない。高校の世界史でも近代史はカットされていた。遠い昔の出来事も大事かもしれないが、十年後や百年後の未来を考えるためには近代史の学習が欠かせない。現在の歴史教育のカリキュラムは、我々から考える材料を奪っているのだ。
 アウシュヴィッツ・レポートの内容を知っていれば、人間が極限状況に追いやられたとき、ごく普通の人間がどれほど残酷になってしまうのか、あるいは従順になってしまうのかがわかる。戦争は国家にとっては利益を得るための人的物的投資なのかもしれないが、個々の戦場や収容所においては人権と人格を蹂躙する恐ろしい現場になってしまうのだ。それを理解することができる。そして考える。戦争を起こさないために我々は何をすべきか。アウシュヴィッツ・レポートは現在の義務教育にあってこそ必要なのだ。
 しかし憲法を教えないで道徳を教えようとする国家主義の政権はむしろその逆を行く。戦争は善、負けるのが悪だと。義務教育の授業でアウシュヴィッツ・レポートが紹介されることは、これからも期待薄だ。しかしインターネットの時代である。拡散することはできるだろう。