三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「シュシュシュの娘(こ)」

2021年08月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シュシュシュの娘(こ)」を観た。
 
 映画としての出来はそれほどでもない。無駄なシーンも多いし、冗長な表現も多い。逆に警察やマスコミが登場しないなどの不自然さもある。予算の問題が大きかったのだろうと理解はするものの、前半はかなりダレる。
 ところが後半になると、俄然面白くなる。ちくわのシーンやタイトルそのものの伏線が上手に回収されていく。テーマは逃げも隠れもせず、安倍晋三による森友学園事件の証拠隠滅を断固として糾弾することである。赤城俊夫さんがモデルの間野幸次を井浦新が好演。この人には以前から反骨精神のようなものを感じていた。
 
 ヒロインを演じた福田沙紀は立派だ。多分本作品のギャラは格安だったと思う。加えて権力批判の作品だ。有名女優は悉くオファーを断ったと思う。そもそもオファーさえできなかったのかもしれない。本人にまでオファーが届けば受けてくれたと思われる心意気のある女優も何人か頭に浮かぶが、それさえもマネジャー止まりだったのではないか。
 で結局お鉢が回ってきたというところだろうが、この役を受けただけで立派である。ただ、もう少しいろんな表情ができればヒロインに感情移入ができたと思うが、本作品はほぼオタクのような印象だった。もし北川景子が演じていれば、作品そのものの印象も変わっただろうが、死んだ子の年を数えても仕方がない。
 
 本作品を観ると、国や都道府県や区市町村にかかわらず、日本全国の役所という役所で公文書の改竄が行なわれている印象になる。実際にその印象は正しいと思う。特に数字だ。結果として欲しい数字になるようにデータを書き換えることなど、日常茶飯事に違いない。
 公文書の隠蔽では、スリランカ人のウィシュマさんが入国管理局の留置場で亡くなった件で、入管が出してきた書類が真っ黒に塗り潰されていたのが記憶に新しい。同じようなことが日本全国の役所という役所で行なわれているに違いない。
 もはや我々にできることは、公文書を改竄、隠蔽しない、情報公開をする政治家を選ぶことだけだが、そういう正しい政治家はなかなか選ばれないし、選ばれても少数派だから政治を動かすことが難しい。終映後に無力感を感じたのは当方だけではないと思う。
 
 こういう映画にちゃんと予算がついて、北川景子みたいな一番人気の女優がヒロインを演じる日が来ればいいと願うが、もしそういう日が来たらこういう映画は必要がなくなることに気づいて、思わず苦笑してしまった。

映画「ドライブ・マイ・カー」

2021年08月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ドライブ・マイ・カー」を観た。
 
 シチリア民謡に五木寛之さんが歌詞をつけた「ひとり暮らしのワルツ」という歌がある。早稲田大学のロシア文学科にいたためなのか、歌詞の中に次の一節が出てくる。
 
 タバコをふかして チェーホフなんか読んで
 悪くないものよ ひとり暮らしも
 
 男と別れた女性が男と暮らした部屋に住み続ける心境を歌っている。「悪くない」ではなく「悪くないもの」という表現にしたところに五木寛之さんの工夫があると思う。「もの」が付くことで、俯瞰した見方になる。いろいろな暮らしがあって、どれも悪くないが、ひとり暮らしも同じく悪くないという言い方である。本作品にはタバコを吸うシーンも割と多いし、自然にこの歌が頭に浮かんだ。
 
 本作品はまさにチェーホフの代表作のひとつである「ワーニャ伯父さん」が劇中劇として展開される。チェーホフは大雑把に言えば人生の意味を問いかける戯曲を作っていたので、そういう意味でもこの作品にぴったりだ。ちなみにワーニャはイワンの愛称で、アレクセイがアリョーシャだったりドミートリーがミーチャだったりするのと同じである。英語圏でも同じように愛称が決まっていて、ジェームズはジミー、ウィリアムはビルである。愛称で呼ぶのは平素や親しみを込めているときで、改まったときは正式の名前で呼ぶ。ビル・クリントンは例の不倫騒ぎのときはヒラリーからウィリアムと呼ばれていたに違いない。さぞ怖かったと思う。
 
 セックスは食と同じく人生に必要なものだが、それを正面から捉えようとした映画は少ない。特に邦画は少ないと思う。あってもマイナー作品だ。しかし本作品には西島秀俊と岡田将生という有名俳優が出ている。しかも3時間の大作である。あとは相手役となる有名女優が出演すれば本邦初のセックスがテーマの映画になったはずだが、そうはならなかった。映画にもなったドラマ「奥様は取り扱い注意」のヒロイン綾瀬はるかが西島秀俊の相手役を務めれば最高だったのだが、ちょっと残念である。
 しかし霧島れいかも悪くない。ネチャネチャと音のする濃厚なキスシーンは、そこらへんの恋愛映画が逆立ちしても映せないシーンだ。舌を絡め合う濃厚なキスは、恋愛成就の証であり、セックスの入口でもある。互いに舌を相手の口腔へ入れ合い、歯の裏や口蓋の奥まで舐め合って、溢れる唾液を飲み込めば、心が溶けて脳は興奮の坩堝と化す。
 このシーンがあったから有名女優が出演しなかったのかもしれないなどと考えたりもしたが、必要なシーンだから誰が監督でもカットはしないだろう。濃厚なキスの向こうにあるのは相手の人格だ。しかしである。人は可能性としては誰とでも濃厚なキスを交わすことができる。つまり濃厚なキスやセックスをしたからといって、相手の人格を理解できるわけではない。人は他人によって高められも貶められもするが、他人の生を生きることも他人の死を死ぬこともできない。どこまでも孤独なのである。
 西島秀俊は名演であった。この人にはこういう複雑な人格こそ相応しい。
 
 本作品にはセックス、暴力、肉親との関係性など、多くのテーマが重なり合うように登場する。どのテーマも最後はひとつの結論に収斂していく。人はひとりで生き、ひとりで死んでいくのだ。それを受け入れるしかない。奇しくも劇中劇「ワーニャ伯父さん」でソーニャが最後に語る台詞の骨子でもある。