三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「祈り 幻に長崎を想う刻(とき)」

2021年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「祈り 幻に長崎を想う刻(とき)」を観た。
 
 製作陣の心意気は伝わってくるが、映画としての出来はあまりいい方ではない。ナガサキの直接の被爆者と残された人々の生活、長崎の復興と暴力集団の発生、売春婦の様子などを群像劇的に描こうとしているのだが、逆に散漫になってしまった。予算の関係だと思うが、シーンの多くが演劇的で奥行きに乏しく、60年以上前の時代を感じさせる映像が皆無だったのも残念である。
 
 俳優陣では、黒谷友香は棒読みの割に滑舌が悪く「詩集はいらんね」がどうしても「しゅうはいらんね」に聞こえて「しゅう」は何のことだろうと考えたほどだ。冒頭のシーンだけにこれは痛かった。高島礼子は悪くなかったが、黒谷友香のマイナスまではカバー出来なかった。
 唯一よかったのが、田辺誠一が演じた桃園が戦争について語るシーンで、登場人物に感情移入したのはこのときだけだった。核兵器をなくすよりも戦争そのものをなくしたいと桃園は言う。まさにその通りである。難民問題も、発生した難民の処し方ばかりが議論されるが、難民を生み出した戦争や紛争についての議論が決定的に不足している。
 柄本明はいつもの飄々とした演技。寺田農の議員さんは正直に本音を言い、当時の長崎の政治状況がわかりやすく理解できた。両ベテランの安定した演技と田辺誠一の名演で、本作品はぎりぎり映画としての形を保てた気がする。
 
 舞台は1957年で、前年に成立した売春防止法が施行された年だが、全国に行き渡るには時間がかかったようだ。主人公鹿が昼は看護婦で夜は売春婦をしていても普通に受け入れられている。男も女も煙草を吸い、おおっびらにヒロポンを売買し、ポン中になる者もいた。時代背景は正しく描かれていると思う。
 
 当方はクリスチャンではないが、信者や教会の存在は否定しない。タリバンと違って他人に信仰を強制しないところがいい。親戚や知人の多くは教会で結婚式を挙げたが、クリスチャンは誰もいない。建物としての教会は、雰囲気があって嫌いではない。誰でも入れるように門戸を開いているところもいい。「レ・ミゼラブル」を思い出す。
 
 聖書の骨子は「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という部分だと思う。天にいる神は常にあなたがたの行ないを見ているから、不寛容な行ないをすれば天国で不寛容な処遇が待っているという訳だ。
 しかし本作品にはその寛容さがどこにも出てこない。むしろ不寛容な言葉ばかりが出てくる。その割に聖母マリアに許されようとする。虫のいいクリスチャンである。そういえばアメリカの前大統領トランプもクリスチャンだ。バプテスマのヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と人々に言ってバプテスマを施したが、どうやら現在のクリスチャンは天国を信じなくなったようである。

映画「孤狼の血 LEVEL2」

2021年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「孤狼の血 LEVEL2」を観た。
 
 昭和の時代の話だと思うが、ヤクザ映画を観たあとの観客は肩で風を切って歩くと言われていたらしい。男は一歩外に出たら7人の敵がいるという、根拠不明の紋切り型が大手を振っていた時代だ。「男は泣くな」「男なんだからしゃんとしろ」「男だろ、はっきりしろよ」等という言い方が非難されなかった。「俺は男だ」というテレビドラマもあった。
 
 男尊女卑の思想は否定されるべきだが、昭和の文化まで否定することはない。その時代背景で人々がどのように生きたのかを表現することは、どんな時代にあっても重要な活動である。暴力団が実際に存在した以上、社会の暗闇を描くのに登場させない訳にはいかない。登場させるからにはその外側だけでなく、内側も描いてみせたい。そこで「仁義なき戦い」に代表されるヤクザ映画が生まれる。それもひとつの文化だ。本作品には「仁義なき戦い」を彷彿させるニュース風のナレーションがあった。白石監督にも昭和のヤクザ映画に対する尊敬の念があるのだろう。
 
 ただ前作に比較するとマル暴の迫力不足は否めない。というか前作で役所広司が演じた大上刑事の迫力がありすぎたのだ。大上の下で修行していた大学出のエリート刑事が大上の跡を継いで暴力団をコントロールするのは土台無理な話で、本作品は前作でなんとか保った危ういバランスが破綻する過程を描く。吉田鋼太郎が演じた綿船会長の「狼はひとりしかいないんだ」という台詞がすべてである。つまりマル暴の迫力不足は、白石監督が意図したものだった訳だ。
 松坂桃李の演じた日岡刑事は線が細くて、どんなに頑張っても本作の迫力が精一杯だったと思うが、白石監督は逆にその頼りない印象を生かして、暴力団と対峙する危なっかしさを演出する。同じように線の細い村上虹郎とタッグを組んでいるところもいい。破綻が目に見えている。
 
 悪党の上林を演じた鈴木亮平は、努力家らしく腹を括った凄みのある演技が素晴らしい。よく鍛えられた広い背中がすでに日岡を圧倒していた。加えて頭のよさが日岡を断然上回っているところが肝で、経験の浅い日岡を徐々に追い詰めていく。死も破滅も恐れずに残虐の限りを尽くそうとする上林に対して、日岡はどこか腹の括り方が中途半端だ。時代が変わりつつあることを理解せず、大上の理屈にしがみついている。腹の括り方が足りないのは他の警官たちにも言えて、保身が第一の上官たちには日岡を守ろうとする者は誰もない。日岡が漸く大上の時代が終わったことを実感するラストシーンは、とても印象的だった。
 
 上林の怒りは虐げられた者の怒りであり、大変に根深い。暴力のリミッターを外しているから、男も女も子供も犬も無関係に虐殺できる。ほとんど鬼だ。自分に逆らう人間、自分に嘘を吐く人間、自分を殴った人間は、その家族も含めて怒りの対象である。残虐の限りを尽くす上林の姿は、誤解を恐れずに言えば、ある意味で爽快である。上林に撃たれて死にたい気さえした。
 
 終映後、神原刑務官がちゃんと上林によって殺されたかどうかが気になった。見落としたのだろうか。どうせなら最悪に酷たらしく殺されてほしかった。そんなことを考えながら知人に会うと、今日はなんだか怖いねと言われた。もしかすると当方にも上林の怒りが伝染していたのかもしれない。