三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Phantom Thread」(邦題「ファントム・スレッド」)

2018年06月08日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Phantom Thread」(邦題「ファントム・スレッド」)を観た。
 http://www.phantomthread.jp/

 主演女優は「マルクス エンゲルス」で主人公カール・マルクスの妻を演じたビッキー・クリープスである。マルクスのよき理解者であり優しい妻である女性を好演していた。本作品では女の強さと優しさに加え、女の業とでも言うべきおどろおどろしさも表現している。
 主人公アルマは伏し目がちの目、声を張らない喋り方、ゆっくりとした動作、はにかむような笑顔など、女の魅力満載だが、一方で強固な姉弟関係に割り込んで自分の居場所を確保する強引さ、強かさも持っている。神経質で気難しいデザイナーは、もともと線が細くてまったく彼女に太刀打ちできない。
 それにしても原題の「Phantom Thread」はどういう意味なのだろうか。翻訳し難いので邦題も「ファントム・スレッド」になったと思われるが、直訳に近い「運命の赤い糸」でいいのではないか。見えない糸で結ばれた二人。サドとマゾ、破れ鍋に綴じ蓋など、あまりいい意味ではない言葉がぴったりの二人。そういう愛のかたちはこの世にたしかに存在する。
 映画は、たとえ周囲がどう考えようとも当人たちが幸せならそれでいいのだと力強く肯定しているように感じられる。常識人としての姉の存在が効果的だ。
 ダニエル・デイ・ルイスはスピルバーグ監督の「リンカーン」での力強い演技が印象的だが、本作ではひとりの女に心を乱されていく情けない男を見事に演じ切った。クリープスとの掛け合いは相手を説得しようというよりも主導権争いに見える。破局するかのようだが、それでも互いから目が離せない。見えない糸に結ばれているかのようだ。最後まで観て、タイトルの意味を考えて漸く納得した。


舞台「父と暮らせば」

2018年06月07日 | 映画・舞台・コンサート

 六本木の俳優座でこまつ座の公演「父と暮らせば」を観た。登場人物は父と娘の二人。山崎一と伊勢佳世がそれぞれ父と娘を演じる。
 駄洒落と冗談が好きで陽気な父親の幽霊と真面目一方の娘。二人がピカと呼ぶ原爆の記憶は、三年たっても昨日のことのように生々しい。
 すり鉢で作るじゃこ味噌、雨漏りのする家、来客に備えて氷で冷やしたビールなど、日常的なシーンが原爆とのギャップを強調し、日常的であればあるほど、失ったものがどれだけ大きかったかが伝わってくる。
 原爆がどのように人々を、地域を、生活を蹂躙したか。広島弁の台詞が朴訥に表現する原爆後の生活と人々の気持ちに、深く打たれてしまった。演じた二人と演出に拍手。


映画「All the Money in the World」(邦題「ゲティ家の身代金」)

2018年06月05日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「All the Money in the World」(邦題「ゲティ家の身代金」)を観た。
 https://twitter.com/gettyransom

 アメリカ映画は自分と自分の家族さえよければ他は関係ないという価値観で溢れ返っているようで、家族だけのハッピーエンドがそのまま世界のハッピーエンドであるかのように描かれることが多い気がする。
 しかし本作品では、結局は家族が大事みたいなシーンもあることはあるが、金儲けと家族という、アメリカ人の最も関心の高い二つをいっぺんに笑い飛ばしているように思えてならない。この映画はリドリー・スコット一流のアイロニーではなかろうか。
 人間の欲望は無尽蔵だ。金持ちはどれだけ金持ちになってもまだ足りないと、ゲティ老人は言う。もちろん欲深いのは金持ちばかりではない。自分さえよければいい、今さえよければいい、金さえあればいいというのが現代の風潮だ。いや、現代だけではなく、昔からかもしれない。原始貨幣経済が始まったときから同時に拝金主義も始まった。何でも無限に交換できる貨幣は、人間の欲望を集約する。
 本作品の原題は「All the Money in the World」である。直訳すると「世界中のすべてのカネ」だ。どれだけカネを集めても飽き足りない金持ちに対する揶揄なのか、それとも人間にとってのカネそのもののありようを嘆いてみせているのか。
 登場人物が家族主義と金儲け主義の間で揺れ動くさまは哀れであるが、映画は必ずしも彼らを否定してはいない。どの人物にも激しい執着があり、人間エネルギーのドラマがある。そのどちらの主義にも属さないゲティ3世が、ただ生き延びるために様々な手段を試みる場面は秀逸で、それこそがリドリー・スコットの描きたかったことのような気がする。状況が目まぐるしく変わるので、見ていて飽きなかった。


映画「海を駆ける」

2018年06月03日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「海を駆ける」を観た。
 http://umikake.jp/

 日常的な台詞だけが続く、坦々として起伏のない作品である。インドネシアの島に暮らす、震災の復興も儘ならない内に援助を打ち切られた住民たち。将来にある漠然とした不安も、日常生活の喜怒哀楽に埋もれていく。
 阿部純子は、日本での色々なしがらみを捨ててインドネシアの伯母を訪ねる若い女を好演。この女優さんは「弧狼の血」でも存在感のある脇役を演じていたが、この作品でも狂言回しを上手に演じている。ただ、フェリー乗り場での平手打ちのシーンはあまりにも唐突で、どこかにインパクトのあるシーンを入れたかった監督の意向だと思うが、日常の英会話でも気を遣っているサチコが急に暴力を振るうのは不自然極まりない。怒りよりも待ち合わせの人に会えた安堵感が先に来るはずの場面で、ホッとして泣き出すくらいが妥当だろう。阿部純子は力業で暴力の場面にしていたが、この優しい作品の中で汚点となってしまった。演じた彼女も気の毒だ。
 ディーン・フジオカが演じた主人公ラウは、主人公にもかかわらず極端に無口な役で、最後まで存在の意味合いがよくわからなかったが、静かに過ぎていく時の流れに何かしらの波紋を広げて、そのエポックを中心にストーリーを構成しようとする意図は読み取れた。
 美しいインドネシアの島々。被災や挫折から再出発しようとする若者たちの青春群像と捉えれば、それなりに味わいのある作品だと思う。


映画「万引き家族」

2018年06月03日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「万引き家族」を観た。
 http://gaga.ne.jp/manbiki-kazoku/

 オキシトシンというホルモンが最近になって注目されている。愛情ホルモンとも呼ばれており、他人に心を許して仲間意識や帰属意識、愛著などを持つようになる働きがあるそうだ。
 愛著と言えば、ブッダは愛著は解脱の障害になると言っている。たとえば道に猫がいるのが見えても、普通は単なる風景のひとつだが、それがタマだったら風景ではなくなる。こんなところでタマは何をしているんだろうとか、怪我をしたりしていないかなど、気になってしまう。愛著は名前を付けることで生まれるのだとブッダは言う。
 固有名詞がオキシトシンの分泌を活発にすることをブッダは遥か昔に見抜いていたのかもしれない。愛著を持つことによって人は客観性を失い、ニュートラルな判断が出来なくなる。命の重さは誰でも皆同じだと思っていても、いざとなると家族や知り合いを優先する。優先するのが自国民であれば、それはそのまま国家主義である。オキシトシンは愛情を生むが、同時に排斥する気持ちも生んでしまうのだ。
 ブッダはオキシトシンを否定して解脱を説くが、解脱することが必ずしも人類の目的ではない。というか、解脱を目標にしている人は世界にほとんどいないのではないか。人は大概、幸福を愛著の中に見出す。

 この映画は社会的または家庭的にうまく生きていけない人間たちが、ひとつ屋根の下で寝食を共にする話である。作品は様々な形の愛著を描くのがテーマなので、ブッダの言葉に従えば、読み解くキーワードは名前ということになる。名前を付ける、或いは別の名前を名乗ることでこれまでとは違う関係性を獲得し、違う愛著を得る。
 愛著は時間とともに変化し、濃くなったり薄くなったり、ときには裏返って憎悪になったりもする。オキシトシンの変化によるものである。可愛さ余って憎さ百倍という諺はとりもなおさずオキシトシンの分泌の増減によるのである。オキシトシンには他者への排斥や憎悪にならないような微妙な分泌のバランスがある。人は綱渡りをして生きているようなものなのだ。綱渡りは非常に困難で、しばしば人は足を踏み外して憎悪と無関心の淵に落ちていく。

 本作品では愛著のありようが人によって異なることを表現する。役者陣の演技はそれぞれに見事であった。特に安藤サクラが素晴らしい。降旗康男監督の「追憶」で初めて見たときから思っていたが、女の優しさを表現するときにこの人の右に出る女優は思い浮かばない。彼女の演じた信代の包容力と愛著のありようがそのままこの作品の世界観となっている。登場人物同士は薄氷のような関係性ではあるが、互いに憎悪や無関心の対象となることはない。相手の人格と多様性を認める寛容さがあるからである。
 憎悪と無関心が猖獗を極める現代社会でこの作品がカンヌフェスティバルでパルムドールを受賞したのは、ある意味で必然であるかのように思われる。