三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

中島みゆきリスペクトライブ「歌縁(うたえにし)」

2019年03月17日 | 映画・舞台・コンサート

 中島みゆきリスペクトライブ「歌縁(うたえにし)」に行ってきた。
 去年の3月は日本武道館だったが、今回は新宿文化センター。登場は中村中、研ナオコ、クミコの常連に加えて、由紀さおり、咲妃みゆなどであった。宝塚出身の咲妃みゆは、「誕生」という重くて長い歌の後に、これまた大作の「銀の龍の背に乗って」を選択。大変な熱唱であった。
 由紀さおりは中島みゆきから提供された自分の歌「帰省」を歌った。疲れ果てた都会人にしみる歌だが、故郷がない人にとっては少し辛い。
 クミコも提供された自分の歌「十年」を歌う。この人は本当に歌が上手い。武道館では合唱団とともに、♪シュプレヒコールの波通り過ぎてゆく♪でおなじみの「世情」を歌っていたが、今回は「遍路」と「時は流れて」を歌った。
 中村中は「うらみます」に始まり、「おもいで河」と「ファイト!」を歌う。「ファイト!」は昨年の武道館で高畑淳子が歌った歌だ。
 例によって最後は客席と一緒に「時代」を合唱。この曲はいつまでも歌い継がれるだろうし、特に今年は平成という時代が終わる年だから、しみじみこの歌を歌う人もいるだろう。
 いつもながら、いいコンサートであった。


映画「君は月夜に光り輝く」

2019年03月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「君は月夜に光り輝く」を観た。
 https://kimitsuki.jp/

 永野芽郁がいい。この人は菅田将暉主演の映画「帝一の国」のときはホンワカしたおっとり感があって、あのドタバタした映画を少し地面に引き戻す重要な役割を果たしていた。当時は17歳で実際も高校生だったはずだが、現実をワンクッション置いて受け止めるような独特の雰囲気は天性のものなのだろう。本作品ではさらに進んで、現実から一歩引いた立ち位置で状況を受け止め、そして自分自身を受け止める、健気な女子高生を見事に演じていた。他にこの役ができそうな若い女優さんはあまり思いつかない。それほど役にぴったりだった。
 それに声がいい。少し前に死期の宣告を受けたばかりの人間なら狼狽えもするだろうが、物心ついてからずっと死と対面してきた主人公まみずは、もはやあたふたする時期をとうに過ぎている。本作はまみずがずっと喋りつづけているような印象の作品で、その声にはある種の諦観のようなものが通底しているように感じられる。死を覚悟した人間は自分を相対化して、深刻ぶることなく、逆にあっけらかんとできるのだろう。淡々として見える演じかただが、永野芽郁にとっては渾身の演技だったと思う。

 北村匠海は「君の膵臓を食べたい」での表情の上手さに驚いたが、その後の映画「十二人の死にたい子どもたち」やドラマ「グッドワイフ」の達者な演技を見れば、さもあらんと納得する。本作品では、見舞いに行った初対面の女子高生の無茶振りをあっさり引き受けるという尋常ではない設定を、さも普通のことのように楽々と演じてしまう。

 岡田くんの姉の回想シーンに映された本の言葉は、中原中也の「春日狂想」の冒頭の一節である。中原中也には「秋日狂乱」という詩もある。対になっている訳ではないが、人間を愛おしく思う気持ちがある一方で、人間の愚かさを憂う気持ちもあり、その相克に張り裂けそうになりながら、詩人はこれらの詩を書いた。その世界観がこの映画の最も重要なメタファーになっている。

 日本は高齢化という面では世界の最先端である。どの国も経験したことのない高齢者だらけの時代がどのように過ぎていくのか、誰にもわからない。かつては如何に生きるべきかがテーマであった。今後は如何に死ぬべきかがテーマとなっていく。生きることは死ぬことと表裏一体なのだ。

 昭和の時代に丸山明宏が「ヨイトマケの歌」を歌った。家族のために肉体労働をする母親が歌う「ヨイトマケの歌」に励まされたという感謝の歌である。戦後の復興から高度成長の時代には、人は人に励まされて生きてきた。これからの人は、人に励まされながら死んでいくのだろう。父から貰ったオルゴールの曲が「幸せなら手を叩こう」だったのは、それが主人公にとっての「ヨイトマケの歌」だったからなのかもしれない。 永野芽郁がいい。この人は菅田将暉主演の映画「帝一の国」のときはホンワカしたおっとり感があって、あのドタバタした映画を少し地面に引き戻す重要な役割を果たしていた。当時は17歳で実際も高校生だったはずだが、現実をワンクッション置いて受け止めるような独特の雰囲気は天性のものなのだろう。本作品ではさらに進んで、現実から一歩引いた立ち位置で状況を受け止め、そして自分自身を受け止める、健気な女子高生を見事に演じていた。他にこの役ができそうな若い女優さんはあまり思いつかない。それほど役にぴったりだった。
 それに声がいい。少し前に死期の宣告を受けたばかりの人間なら狼狽えもするだろうが、物心ついてからずっと死と対面してきた主人公まみずは、もはやあたふたする時期をとうに過ぎている。本作はまみずがずっと喋りつづけているような印象の作品で、その声にはある種の諦観のようなものが通底しているように感じられる。死を覚悟した人間は自分を相対化して、深刻ぶることなく、逆にあっけらかんとできるのだろう。淡々として見える演じかただが、永野芽郁にとっては渾身の演技だったと思う。

 北村匠海は「君の膵臓を食べたい」での表情の上手さに驚いたが、その後の映画「十二人の死にたい子どもたち」やドラマ「グッドワイフ」の達者な演技を見れば、さもあらんと納得する。本作品では、見舞いに行った初対面の女子高生の無茶振りをあっさり引き受けるという尋常ではない設定を、さも普通のことのように楽々と演じてしまう。

 岡田くんの姉の回想シーンに映された本の言葉は、中原中也の「春日狂想」の冒頭の一節である。中原中也には「秋日狂乱」という詩もある。対になっている訳ではないが、人間を愛おしく思う気持ちがある一方で、人間の愚かさを憂う気持ちもあり、その相克に張り裂けそうになりながら、詩人はこれらの詩を書いた。その世界観がこの映画の最も重要なメタファーになっている。

 日本は高齢化という面では世界の最先端である。どの国も経験したことのない高齢者だらけの時代がどのように過ぎていくのか、誰にもわからない。かつては如何に生きるべきかがテーマであった。今後は如何に死ぬべきかがテーマとなっていく。生きることは死ぬことと表裏一体なのだ。

 昭和の時代に丸山明宏が「ヨイトマケの歌」を歌った。家族のために肉体労働をする母親が歌う「ヨイトマケの歌」に励まされたという感謝の歌である。戦後の復興から高度成長の時代には、人は人に励まされて生きてきた。これからの人は、人に励まされながら死んでいくのだろう。父から貰ったオルゴールの曲が「幸せなら手を叩こう」だったのは、それが主人公にとっての「ヨイトマケの歌」だったからなのかもしれない。