三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「九月の恋と出会うまで」

2019年03月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「九月の恋と出会うまで」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/kugatsunokoimovie/

 川口春奈はかなりの美人なのに、表情が乏しいせいか、失礼な言い方だがあまり華がないように感じてしまう。可愛くないし色気もない。この人よりも容貌では見劣るかもしれない女優さんでも、表情豊かであればそれなりのコケットリーはある。
 本作品と同じように高橋一生がややエキセントリックな役を演じた映画「嘘を愛する女」では相手役を長澤まさみが務めたが、演技力が優れているとは思えない長澤でも、今回の川口よりはかなりマシだった。
 川口春奈がまったく駄目ということでもないが、アップの多い本作品では女優力がものをいう。もう少し演技力があって表情にバリエーションのある女優さんが演じたら、ちょっとは作品に奥行きが出たのではないかと思う。

 タイムパラドックスはタイムマシンと並んで様々なジャンルのSFで扱われた古典的なテーマである。もっとも有名なのは相対性理論の説明で紹介された双子のパラドックスである。ご存知ない方のために簡単に解説すると、相対性理論では定数はCで表される光の速度だけで、時間も空間も変数である。物体の速度が光速の9割になると、時間の経過が半分になる。双子のひとりがその速度で20年間宇宙旅行をして帰ってくると、残っていたほうは40年歳を取っているという話である。この他には本作で紹介された親子のパラドックスなどがあるが、いずれも解決はない。熱力学第二法則が示すようにマクロの現象はすべて不可逆である。過去には戻れないのだ。
 しかしタイムマシンの本当のテーマは過去に戻れるかどうかではなく、過去から見た現在、現在から見た過去がそれぞれ肯定できるかどうかである。人は未来に不安を感じ、現在に苦痛と恐怖を覚えたとき、誰でも過去を振り返る。あのときああすればよかった、こう言えばよかった、そうすれば・・・。

 本作品はタイムパラドックスを舞台にした、小ぢんまりとした恋愛劇である。だがヒロインの性格まで小ぢんまりとすることはなかった。相手役の平野に拮抗できるくらい癖の強いヒロインであれば、作品の印象も違っていたと思う。

 
 

映画「グリーンブック」

2019年03月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「グリーンブック」を観た。
 https://gaga.ne.jp/greenbook/

 本多勝一の「アメリカ合州国」で深南部の人種差別の現状が明らかにされたのは1960年代の終わり頃である。クリスチャンの黒人運動家キング牧師が暗殺されたのが1968年、イスラム教徒のマルコムXが暗殺されたのが1965年だ。本作品の舞台は1963年だから、二人の指導者による黒人公民権運動が盛んな頃だと思われる。運動が盛んであれば、それに反発するほうも盛んになる。多くの黒人は理不尽な差別に耐えていた。

 本作品を観て解ったことは、個々の白人はそれほど黒人に対して差別感情を持っていないということである。差別を作り出すのは共同体の一部の人間だ。歴史的には主に綿花栽培の労働者としてアフリカから「輸入」された黒人たちは、奴隷売買という市場の商品として、人間的な扱いをされないできた。最初はアフリカの言葉しか話せなかった黒人たちも、英語を理解するようになると、次は英語で自分たちの権利を主張するようになる。しかしそれが気に入らない人間たちがいた。
 人間の自尊感情は何らかの基準で自分よりも下の人間が存在することで担保される。本来は他人と比べることなく自尊感情を持てるようにしなければならない。なぜなら、この世界は自分が五感で感じているから存在するのであって、自分が存在しなければ世界も存在しないのだ。自分が死んだらどうなるかなどと考えるからいけない。自分が死んだら世界は終わる。人は自分だけの生を生き、自分だけの死を死ぬのだ。ゴータマ・ブッダが生まれてすぐに天上天下唯我独尊と言ったのは、そういう意味である。
 しかし多くの人々はゴータマが説いた孤独な自尊感情を持てず、他人の評価によって承認欲求を満たす。その裏返しが差別である。権利を主張し始めた黒人を弾圧し、差別を固定化することで自分たちのレーゾンデートルを求める。差別は多くの場合、虚構によって作られる。嘘八百を並べて黒人たちを差別する理由にするのだ。そうやって作られた差別の虚構が蔓延して、あたかも本当であるかのような錯覚をさせてしまう。それが差別の実態だ。そして差別主義がその時代のパラダイムになっていく。自分で物事を考えない人はパラダイムに流される。それに、差別に加わらないと次は自分が差別されるという恐怖心もある。教室でのいじめと構造は同じなのだ。共同体に蔓延する差別という空気を一掃しない限り、民主的な社会は得られない。それには長い年月がかかる。人々の頭の中に充満した差別の感情は、簡単に取り払うことができない。場合によっては親から子供へ差別感情が受け継がれる。人類から差別がなくなる日は永遠に来ないかもしれない。

 マハーシャラ・アリは、数日前に観た「アリータ バトルエンジェル」での肝の据わった悪役を演じた俳優と同一人物とは思えないほど、本作のドクター・シャーリーはストイックで落ち着き払った知識人であり芸術家であった。「暴力は敗北だ」という哲学が、彼の努力を支えてきた。
 主人公を演じたビゴ・モーテンセンは微妙な表情を使い分けることのできる達者な役者である。ガサツで無教養だが、嘘はつかず、悪に染まらず、意外と実直で頑固なトニーを好演した。ケネディの言葉を自分に都合よく間違えて憶えているところは、陽気なイタリア人らしくて笑える。
 人間が他人と完全に解り合えることはありえないが、互いの考え方を認め、性格を認め、存在を認め合うことはできる。そして同じ時間を過ごし、同じ星を眺めて美しいと言うこともできる。それは多分、しあわせなことである。


映画「Aquaman」

2019年03月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Aquaman」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/aquaman/

 「アリータ」を観た次の日に鑑賞。「アリータ」は最終戦争の後の未来が舞台だが、こちらは現代である。海底の帝国が出てくるところはエジプトもの、ファラオものみたいでもある。伝説の武器が出てくるところは「マイティ・ソー」に似ている。ビデオゲームの「バイオハザード」では最後にロケットランチャーを入手してぶっぱなして終わる。本作品も大体似たようなものだ。
 水中のシーンはそれなりの迫力で楽しめたが、2Dで観たのであまりスピード感は味わえずに終わった。しかし海中生物がワンサカ出てくるところはなにがなんだかよくわからず、3Dで観たら暗くなる分さらにわかりにくいだろう。
 登場人物に人生観も哲学もないから、文学的な深みには欠けるが、そもそもこの手の映画に深みを求めてはいけない。プラグマティックなご都合主義に満ちた脚本でも、音と映像でなんとか楽しめるということである。
 御歳51歳のニコル・キッドマンが年齢不詳の女王の役で奮闘しているのが唯一の救いで、その演技になまめかしい「女」を感じて、少しホッとした。


映画「Alita: Battle Angel」

2019年03月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Alita: Battle Angel」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/alitabattleangel/

 コンピュータの進歩に合わせて、CGの世界も短期間に長足の進歩を遂げた。「バイオハザードヴェンデッタ」という全編フルCGの映画は十分に大人の鑑賞に耐える出来栄えだったし、本作品は更に映像技術が進んでいる印象を受けた。
 世界を破滅させた最終戦争が終わった後の世界は、一作目の「ターミネーター」で初めて体験して、その世界観に驚いたが、その後に同じような設定のSF映画が何本も公開されて、いささか食傷気味になっている。
 本作品はコリン・ファレルが主演したほうの「トータル・リコール」や、マット・デーモンの「エリジウム」に見られるような、二極化された格差社会の設定だが、エネルギー循環や食糧供給の仕組みなどがいまひとつ曖昧なまま、ストーリーが進んでいく。観客にとってはモヤモヤを抱えたままの鑑賞となり、どこかでスッキリした説明があることを期待するのだが。
 登場人物はみんな底の浅い造型で、世界観を考えるよりもCGの見事な映像と音響を楽しむ作品である。あれ、ここで終わり?と思ってしまうラストシーンからすると、続編ありきという製作意図は明白だ。
 こういう作品を観ると、改めて「ターミネーター」第一作は偉大な名作であったと再認識するのである。


「あの素晴らしい歌をもう一度コンサート2019」

2019年03月03日 | 映画・舞台・コンサート

 日本武道館でニッポン放送開局65周年記念「あの素晴らしい歌をもう一度コンサート2019」に来ている。観客はすべて年配で、若い人は見受けられない。夫婦か女性同士、または女性のひとり客が殆どで、オッサンひとりは私だけだ。
 前半のハイライトは森山良子だ。白鳥英美子とのハーモニーも凄かったが、そのあとはオペラ椿姫から「乾杯の歌」をクラシックの歌唱法で歌い、そして「聖者の行進」をスキャットを混じえながら歌う。スキャットは往年の名プレイヤー、ソニー・ロリンズ、コルトレーンなどの演奏の楽器物真似を兼ねていて、長さといい、バリエーションといい、まさに圧巻であった。歌姫というより歌のモンスターである。チケットが取れない筈だ。稀代の天才である。この人を超える歌手はそうは現れないだろう。
 後半は泉谷しげるやイルカ、宇崎竜童などが登場する。泉谷の「国旗はためく下にあつまれ」を生で聞きたいものだ。

 16時からの長いコンサートは20時に漸く終了。泉谷は「黒いカバン」と「春夏秋冬」の2曲と、沢田研二の応援で宇崎竜童とのユニゾンで「TOKIO」を歌った。「春夏秋冬」の歌詞の「今日ですべてが・・・」について、同年代が殆どの客席に向かって「これまでいろいろと大変なことがあっただろうが、今日は自分のための今日にしろ」と、似合わない言葉を語っていた。
 太田裕美とイルカと尾崎亜美が三人で「ドタ・キャンディーズ」として登場。沢田研二の騒動を茶化したネーミングだ。振り付きで「春一番」を歌った。小室等、上條恒彦が「出発の歌」を歌った後にエンディング。コンサート名の元になった「あの素晴らしい愛をもう一度」を出演者全員と観客で熱唱。とても心地のいいコンサートだった。


社労士本間由美子の「ほう」

2019年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム

とある講習会にて。
これほど「ほう」を使った話をはじめて聞いた。

 

顧問先のほうに健康経営のほうをおすすめさせていただいて認定のほうを頂戴しました。

会社のほうを休んではいないが、生産性のほうが低下している。

厚労省のほうから会社のほうに連絡のほうがある。

働き方改革は政府のほうで対応のほうを進めている。

健康経営のほうも一緒に考えてほしい。

リーフレットのほうを付けてあります。

銀バッジのほうを取ると、優良法人のほうも取れる。

こちらのほうで進めていく。

会社のほうに係るお話のほうや相談のほう、担当者のほうを決めていただく。

費用のほうについてご提案のほうをさせていただく。

お手元のほうに用紙のほうがあります。

協会けんぽのほうに窓口のほうが定められていて、専門家のほうを会社のほうに派遣します。

私のほうで取り組んだ事例の紹介のほうに入ります。

回覧文書のほうを回す。

取組のほうを始めてみてください。


映画「ねことじいちゃん」

2019年03月01日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ねことじいちゃん」を観た。
 http://nekojii-movie.com/

 ベーコンという猫は大した役者である。演じたタマは、人に寄り添い、淋しい三毛猫に寄り添う。勿論見返りなど考えもしない。ただ生きて、そして死ぬ。生きていることに意味などない。そんなものを求めているのは人間だけだ。だから人間はいつも欲求不満で、いつも不幸なのだ。
 動物を飼うのは生命と向き合うことである。生命というのは健やかなときもあれば病めるときもある。外見は綺麗でも、大腸には汚物を溜め込んでいる。そして一刻ごとに老いていく。飼い猫が成長して老いていくということは、飼っている自分も老いていくということだ。
 島にはたくさんの猫が住んでいる。島の老人たちは、自分たちが老いて近いうちに死んでいくことを知っている。まだ経験していないことはたくさんあるが、今更そんなことを嘆いてもしょうがない。それよりも身近な人やもの、それに島の猫を大切にしよう。歳を取ると残り少ない日々がとても愛しい。
 掃き溜めに鶴ではないが、老人たちばかりの島にやって来た女性に、柴咲コウというとびきりの美人を配役したのがよかった。みんなから注目され、そして好かれなければいけない役だから、目を瞠るほどの美人である必要があるのだ。その上に優しさと落ち着きを持ち合わせていなければならない。柴咲コウには、女の優しさを表現する力がある。
 猫と老人たちとで過ぎてゆく日常を淡々と綴った作品だが、壊れたり失われたりすることそれ自体を愛する気持ちがある。諸行無常を嘆くのではなく、人生の儚さそのものを楽しむ、俳諧のような世界観だ。味わい深い良作である。