三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「決算!忠臣蔵」

2019年12月03日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「決算!忠臣蔵」を観た。
 https://chushingura-movie.jp/

 復讐は英語でリベンジだが、仇討はアベンジという。両方とも報復という意味合いは同じだが、アベンジには大義名分がある。江戸時代は封建主義の時代だから、大義名分がなければ何も認められない。しかし逆に言うと、大義名分があれば殺人さえも許されるということだ。
 お上(征夷大将軍)による殺人は、簡単に言うと切腹の命令である。大義名分も、ものは言いようで、お上が言えば何でも大義名分になる。無理が通れば道理が引っ込む理屈である。浅野内匠頭が切腹したのも大義名分なら、赤穂浪士が討ち入りでアベンジを果たしたのも大義名分だ。武士道というのは便利な理屈なのである。
 あれ?どこかの国の総理大臣に似ていないか?と思った人は慧眼である。大義名分を縦横無尽に操り、都合の悪いことは何でも誤魔化して、自分の利益だけを追求するのは将軍様も暗愚の宰相も同じなのである。

 さて本作品は、大義名分に右往左往する人々を経理担当者の目からニュートラルに捉えたコメディである。何でもかんでも銭勘定で捉えようとするその着眼点は、なかなか新しい。浅野内匠頭の切腹は幕府が赤穂の塩を手に入れるために奸計を謀った結果であり、吉良上野介はうまいように捨て駒に使われただけだとすれば、これまで語られてきた忠臣蔵の構図が一変しそうである。しかもそれが結構本当らしく思えるから、なおさら面白い。
 経理担当者から世の中を見るとどのように見えるのだろうか。たしかNHKの「これは経費で落ちません!」というタイトルの、多部未華子演じる主人公が経費精算から社内の問題を発見するドラマがあったと思うが、生憎NHKは絶対に見ないので、内容は不明だ。タイトルからしてちまちました経費の精算だろうから、世の中まで見えるドラマではなかっただろう。しかし銀行からの融資や巨大ブロジェクトへの投資、公共事業の入札などに関わると、経理の仕事から世の中が見えてくるようになるのは確かであろう。
 いまは景気の悪い時代である。株価が高かろうがどうしようが、消費者の消費が低く抑えられている現状は景気が悪いとしか言いようがない。景気がよければ消費が拡大するのは自明の理である。経理担当者としては、長期スパンと短期スパンの両方の展望を経営者に示すことになる。長期で言えば、グリーンエネルギーや自動運転など、基礎研究をもとにした投資事業が考えられる。これは国家が長期的な見通しを持って企業と協力していく姿勢を見せるようであれば、経理担当者はそちらに金を出したいと思うだろう。短期スパンとは身近の金だ。利益が出ないようであれば、経理担当者は投資を控え、内部留保を溜め込む。国家の財政が怪しかったり、政府の見通しが暗かったりすると、どうしてもそうなる。
 オリンピックの土建屋や沖縄の埋立業者の経理担当者はいくらでも金を出すだろうが、それ以外の企業は金を出す理由がない。オリンピック後の不景気が見えているだけに、金を出せるのは電気自動車やドローン開発など、一部で確実に利益が見込まれる部門だけである。政策の後押しがなければどんな経理担当者も金を出したくない時代なのだ。

 本作品の経理担当者はそこまで踏み込んでいない。だからなんとなく詰めが甘いまま仇討ちに突入することになる。思い切って仇討ちしないことにしてもよかったのだろうが、流石に史実までは変更できない。誰もが知っている結末へ向かうのだが、どこまでも銭勘定がついてまわるのが傑作である。地獄の沙汰も金次第という諺が頭に浮かんだ。
 岡村隆史はじめ吉本芸人の演技はそれなりのレベル以上であるが、木村祐一のように学芸会クラスもいるので、肝心な役どころは堤真一や妻夫木聡を始めとする俳優陣が締めて、作品全体が緩くならないように歯止めになっている。なぜか大地康雄の演技だけが浮いていたが、喜劇に欠かせない濱田岳や西村まさ彦の芸達者軍団が要所要所で笑わせてくれる。武士でお金といえば「殿、利息でござる!」を思い出すが、今回の阿部サダヲは浅野内匠頭の役でお金よりも大義名分大好きの単細胞を演じた。
 堤真一は昨年、新国立劇場の舞台「近松心中物語」とBunkamuraシアターコクーンの「民衆の敵」を観たが、いずれも感動的な芝居だった。存在が微妙に軽いから演技も軽く見られがちだが、実際は大した俳優だと思う。


ワンチーム死ね!

2019年12月02日 | 政治・社会・会社
 ラグビーは他のチームを貶めるゲームだ。他が失敗し、自分たちだけが成功すれば勝利となる。自分たちだけが一丸となって頑張れば、他が失敗して勝利が転がり込む可能性がある。それがワンチームだ!
 他人の不幸を請い願う。それが試合なのである。そもそも試合があるからいけない。試合はスポーツではない。試合をして優劣を競い合う限り、他人の不幸を願う人が人類の続く限り、存在し続けるだろう。他人の不幸を願う人ばかりの世の中をワンチーム!として喜ぶのは頭が悪いとしか言いようがない。
 そもそも優劣を競うのは、自分が他よりも優れているという優越感を持ちたいからである。これは優越複合であり、劣等複合と対になる精神の働きだ。表裏一体なのである。英訳すれば両方ともコンプレックスだ。
 コンプレックスは不自由な精神のひとつで、コンプレックスから自由にならないと人間は幸福になれない。相手を劣っていると馬鹿にし合う関係は、どこまでも不幸である。それがコンプレックスの関係だ。
 ワンチーム!と言って他を貶めようとする劣悪な精神性が流行語大賞になるような国は、そもそも国民の精神性が劣悪なのである。戦前の精神性から一歩も出ていない。日本は国民総火の玉となって戦うのだ。鬼畜米英。一億玉砕。天皇陛下万歳。
 戦後民主主義は画一化から脱し、多様性を求め、多様性に対して寛容を求めるものだった。戦後74年も経って、またあの暗黒の時代に戻ろうというのか。
 ワンチーム死ね。

芝居「私たちは何も知らない」

2019年12月01日 | 映画・舞台・コンサート

 池袋の東京芸術劇場シアターウェストで芝居「私たちは何も知らない」を観劇。
 http://nitosha.net/nitosha43/

 平塚らいてうを演じた朝倉あきの透明感のある美貌と嫌味のない演技、癒やしてくれるような声が最高。主人公の、女の独立と平等を主張する一方で、恋をし、女の性欲を語り、人を思いやるニュートラルで深い精神性が素晴らしい。本物の平塚らいてうが本当はどういう女性だったのかは不明だが、この芝居のらいてうは世界一の女性である。


映画「テルアビブ・オン・ファイア」

2019年12月01日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「テルアビブ・オン・ファイア」を観た。
 http://www.at-e.co.jp/film/telavivonfire/

 劇中劇であるテレビドラマのタイトルがそのまま映画のタイトルになっている。この構造自体はとてもわかりやすい。これは喜劇にとって重要な点で、わかりにくい映画には誰も笑えない。
 しかし主人公サラームの立ち位置は複雑だ。エルサレムに住むパレスチナ人だが、ヘブライ語が話せることを買われて、テレビドラマの脚本の補助係としてパレスチナ自治区にある撮影所に通うことになる。当然ながら途中にあるイスラエル軍の検問所を通らねばならない。
 テレビドラマは作成と同時進行で放映中で、イスラエル人にもパレスチナ人にも人気である。タイトルからはテルアビブが様々な対立で火がついているのか、それとも他の意味で盛り上がっているのか、あるいはその両方だと思われる。場所柄、人種と民族と国家間の火種が常にくすぶっている一方で、人間と文化の交流もあり、ドラマ性には事欠かない。
 物語は割と日常的に落ち着いて推移し、ド素人のサラームが脚本を書く羽目になると、検問所の責任者アッシが脚本に関与してきて、しかもそれが意外に才能があって、サラームのチャンスを増大する。
 放映中のドラマの脚本を製作者の都合でどんどん変えるなんてないと思っていたが、そういえば日本のドラマ「黒い十人の女」でも、劇中劇のドラマの筋書きをどんどん変えていた。撮影しながら変更することは結構あることなのかもしれない。
 本作品では、人々がそれぞれの勝手な思惑を主張して、撮影の現場でなんとか形にしていくが、そのドタバタぶりが面白い。ドラマを取り巻く条件が複雑すぎて、声を上げて笑うというほどではないが、映画全体が滑稽でおかしみに満ちている。人間は占領下にいても、自由を制限されていても、人間は力強く面白く生きていくものだ。民族の対立をそんな世界観で笑い飛ばすような豪快な作品である。ケッサクだ。