三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「凱里ブルース」

2020年06月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「凱里ブルース」を観た。
 長いワンシーンがつながれたロードムービーである。日本で言えば「仁義なき戦い」の頃だろうか。土間に物を置く習慣が残っていたり、外から戻っても手を洗わなかったりするから、衛生観念が社会に行き渡る前の話だろう。映像は暗くてわかりづらく、お世辞にも洗練された作品とは言い難い。
 ヤクザが詩人になってもおかしくはない。世の価値観は常に揺らいでいて、人は風にそよぐ葦のように翻弄され続けている。封建主義のパラダイムが支配的であればそういう考え方になるし、大義名分にもなって他人を非難する根拠となる。拝金主義のパラダイムが支配的であれば金儲けをした人間が偉い人間なのだ。
 誰のために何をするのか。自分は誰に必要とされているのか。自身のレーゾン・デートルを求めて旅をするシェンは、故郷に時の移ろいを見る。残ったのは人の優しさだけなのかもしれない。身の上話を聞いてくれた床屋に大切なものを渡してしまう。それがシェンの優しさなのだ。ヤクザから足を洗い久しぶりに訪れた故郷は、必ずしもシェンを歓迎してくれる訳ではないが、邪慳にもしない。うねうねとあぜ道が通る田んぼに風が吹いている。

映画「ペイン・アンド・グローリー」

2020年06月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ペイン・アンド・グローリー」を観た。
 三つ子の魂百までというが、躁鬱質、癲癇質、分裂質という3つの気質と強気、中気、弱気の3つの気性についてはその通りだと思う。この9マスのマトリックスの分類からは誰も逃れられない。加えて幼い頃の五感にかかわる思い出は、歳を経ても色褪せることがない。
 幼少期の思い出の中には、決して人に話せないことがある。心に刺さった棘のように不快で、時には炎症を起こして激痛を齎すこともある。そういう思い出を心の奥深くに潜めている人は少なからずいるだろう。
 それでも絵を見たり本を読んだりして、人は屢々癒やされる。映画もそのひとつだ。そして幾人かの人々は自分で絵を描き、小説を書き、あるいは映画を作る。そうして誰にも言えない自分の傷跡を覗き込んでは痛みの向こうにあるものを見ようとする。産み出された作品は、同じように心に棘を持つ人を癒やすことができるかもしれない。
 芸術はどこかで共同体のきまりに反したり、世の中のパラダイムに背くものだ。それはとりもなおさず心の傷が人に言えない理由に等しい。恥、禁忌、異端などを自覚したことによるうっすらとした息苦しさが、人をそこはかとなく苦しめる。そして芸術に向かわせる。夏目漱石が同じようなことを「草枕」に書いていたのを思い出した。
 本作品の主人公サルバドールもまた、心に刺さった棘に苦しむひとりである。おまけに坐骨神経痛などの様々な痛みに苦しんでいる。坐骨神経痛は長時間歩き続けられないし、踏ん張りが効かなくて足も上がらなくなる。若い頃空手で鳴らしていた人でも、坐骨神経痛になると回し蹴りはおろか前蹴りさえもままならない。身体がうまく動かないと気が弱くなる。だから逆に虚勢を張りたくなる。
 思い出と老化と身体の痛みと過去の栄光と将来の不安。様々に苦しむサルバドールだが、32年前の映画の再映をきっかけに動きはじめる。知人の助けと偶然の助けがある。心の傷は芸術への原動力だ。行動するには痛みが邪魔だが、意欲が失われた訳ではない。
 なんだかいろいろと救われる作品だった。人生も半ばを過ぎて来し方を振り返り行く末を案じる歳を経た方々には心に響く映画だと思う。