三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「a hope of NAGASAKI 優しい人たち」

2021年08月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「a hope of NAGASAKI 優しい人たち」を観た。
 
 ナガサキの原爆被害を扱ったドキュメンタリー映画は初めて観た。ヒロシマを扱った作品とは少しニュアンスが違う気がする。監督の松本和巳さんの人柄のせいだろうか。インタビューに答えた10人の被災者からは、酷い目に遭った怒りや悲しみよりも、それを乗り越えて生きてきた余裕が感じられた。よく笑うし、ときには涙ぐんだりもするが、どの人も表情が豊かだ。
 
 印象に残った言葉はふたつ。ひとつは「命に縁があったんですね」という言葉である。原爆で人がたくさん死んだ。自分の家族や浸漬、クラスメートも死んだ。しかし自分は生き残って長く生きている。そのことを淡々と語る。
 もうひとつは「戦争はつまらんですよ」という言葉だ。「つまらん」という言葉は九州ではとても含蓄のある言葉で、面白くないときに使うのはもちろん、よくないとか駄目という意味でも使う。それに物足りないという意味でも使われる。彼女から「食事と映画だけのデートはつまらん」と言われたらかなり脈があるということだ。「つまらん男ばい」と言われたら、最悪の場合は面白くなくて人間的な深みもない上に日頃の行ないもよくないダメ男という意味になる。人格も人間性も全否定されるわけで、長崎の人から「あんたはつまらん」と言われたら、深く反省したほうがいい。
 本作品で使われた「戦争はつまらんですよ」も同じ意味合いで、戦争は意味がない上に人を無駄に殺すだけの駄目な行ないだということである。世界の多くの人は戦争が「つまらん」ことを知っている。帝国主義の時代からふたつの世界大戦を経験して、更に言えばふたつの原爆被害も経験して、もう戦争は懲り懲りなのだ。にもかかわらずどの大国も軍隊を持ち、核兵器を持ち、場合によっては軍事衛星まで持っている。
 通信が世界の隅々まで行き届いた今となっては、他の共同体の不利益が自己の共同体の利益となる時代は終わったのだ。戦争は割に合わない投資なのである。軍需産業が政治家を動かして国民の税金を無駄遣いするのは、国際社会にとっても地球環境にとっても、いいことは何もない。
 
 ひとりの女性被爆者が次の意味合いのことを言っていた。「日本の兵隊さんも、個人と個人の交流ではとても優しい人がいる。でも軍となったら、それは酷いことをする」。組織の中で自分の立場や時には命を守るためには、良心に背く非人道的な行為もしなければならないときがあるという訳だ。
 しかし今は選挙がある。そういう組織を選ばなければいい。と、言うのは簡単だが、近所のおじさんが出馬したら、どうしても応援してしまう。ニコニコと握手されたら、その人に投票してしまう。でもその人は戦争をしたい組織の政治家だ。問題は有権者が「戦争はつまらんですよ」という認識を貫けるかどうかである。情緒に流されずに投票行動を決められるかどうか。「つまらん政治家」に投票するのは「つまらん有権者」なのである。

映画「キネマの神様」

2021年08月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キネマの神様」を観た。
 
 山田洋次監督といえば寅さんシリーズで歴代のマドンナを美しく撮ったように、女優の美しさを極限まで引き出す天才である。本作品の北川景子はこれまでに見たこともないほど美しかった。若い日の淑子を演じた永野芽郁の愛らしさはリアリティを伴って、見た目も可愛いが、それ以上に声がよかった。北川景子の澄んだ声も素晴らしいが、永野芽郁の少しだけキーの低い優しい声は胸に響いてくるものがある。女優の美しさは見た目だけではないのだ。
 
 山田監督のもうひとつの特徴は人情話である。成功者などには見向きもせず、ひたすら巷にいる無名の人を描く。真面目な人もいれば駄目な人もいる。駄目な人にもその人なりの人生がある。決して否定されるべきではないし、むしろそういう人の生き方にこそ、人生の真実が垣間見えることがある。その僅かな光を逃さずに捉えて映画にするのが山田監督の作品なのである。
 
 本作品もその例に漏れず、かつて映画の助監督で苦労した男の、ささやかな人生を描く。志村けんを当て書きにした脚本であることは場面場面で明らかになるが、沢田研二より志村けんのほうがよかったのかどうかは、もはや比べようがないし、比べても意味がない。
 主人公の郷直という名前は剛直に通じて、本作品にはシェイクスピアのような性格悲劇の部分もある。頑固なくせに気が小さくてプレッシャーに弱い性格が、男の人生を王道から踏み外させる。そしてそんな男のことが放っておけない優しい女がいる。
 本作品には、人生はかくも悲しく、人はかくも滑稽に生きるものなのだという、枯れて達観したある種の諦めがある。そのそこはかとない悲しさを共感すると、映画への愛おしさが募ってくる。
 一方では、ラジオを地面に投げつけようとして思いとどまったり、こっそり缶ビールを頂戴したり、寝ているようで寝ていないことで人を驚かせたりと、志村けんのコントを彷彿させるシーンを散りばめて、笑いを取ることも忘れない。
 
 このところの山田監督は、いつも最後の作品のような思いで作っているように思える。どの作品にも涙と笑いと優しさがたっぷりあり、鑑賞後は必ずほっこりする。本作品では特に映画に対する深い思い入れが感じられ、役者陣はかなり苦労したに違いない。同時に勉強にもなっただろうし、山田監督と同じ向きで作品に向き合う楽しさもあったと思う。
 当方もまた、映画を鑑賞することで同じ楽しさを共有することが出来た気がする。描かれた現在と過去のシーンを観て、描かれなかった、郷直と淑子の50年という長い年月に思いを馳せる。喜びも悲しみも幾歳月。宮本信子が演じた、老いた淑子の涙がすべてを語っていた。

映画「パンケーキを毒味する」

2021年08月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「パンケーキを毒味する」を観た。
 
 本作品はアベ~スガ政権がどれほど悪質な上に中身のないスッカスカ政権だったかを描く。映画館では笑っている人もいたが、現実は笑えない。
 菅義偉が頭が悪いのはことあるごとに明らかになってきたが、後ろで支える官僚もそれほど頭がよくない。共産党の小池晃さんに学術会議の任命拒否を国会で追求されたとき、あまりにも同じ答弁を繰り返すので議長が一息入れたが、その間に一生懸命官僚が作文した答弁をスガが読むのを聞くと、これが見事に前の答弁とほぼ同じで、流石に殆どの議員が呆れ果てていた。頭のいい高校生ならずっとマシな文章を書くだろう。政治家の劣化は官僚の劣化からくる。そもそもアベとスガはイエスマンしか周りに置かない。イエスマンの例にもれず、頭の悪い人間しか周りにいないということだ。10年後100年後のことなど考えられないのだろう。木を見て森を見ず。大局観のない政治家と官僚ばかりではこの国に未来はない。
 
 ナレーションを担当した俳優の古舘寛治さんは、ツイッターで「古舘寛治は言う、投票率80%こそが日本人の革命だ!投票倍増委員会会員。会員を増やしたい。選挙までは!」という長いハンドルネームを使って、投票倍増委員会というものを立ち上げている。投票率倍増委員会ではなく投票倍増委員会としたのは、有権者の選挙に対する姿勢を問題にしているからだと思う。選挙があれば候補者を自分で見定めて誰に投票するかを決め、投票日に投票に行くか、事前投票をする。そういう当たり前の行動をしない人が多いのが現状だ。日本を変えるために、選挙権を放棄する人を減らす、できればゼロにするのが目的である。
 古舘寛治さんの主張には全面的に賛成だ。しかし、投票率が80%になったら自公の悪徳政治がなくなるのかというと、やや疑わしい。選挙に行かない人々は現状維持でいいと思っているから行かないわけで、行ったら行ったで、結局自民党に投票するのではなかろうか。現に若者の多くは自民党支持だ。
 投票率が100%になったら自民党が大勝して、国を挙げての翼賛政治になる可能性もゼロではない。古舘さんは投票率が80%になったら政権交代が起きると信じているのだろうが、それは有権者に期待し過ぎだと思う。コロナ失策が明らかになった今でも、スガ内閣の支持率は30%を超えている。日本の有権者もスガと同じレベルであり、10年後100年後のことなど考えずに投票するのだ。やっぱりこの国に未来はない。

映画「返校 言葉が消えた日」

2021年08月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「返校 言葉が消えた日」を観た。
 
 文句なしに面白い。ホラー映画ではあるが、生徒と教師、教師と教師、生徒と生徒の微妙な恋愛感情や信頼と疑惑が描かれ、しかもそれらが次々と変化していく。それが権力による言論統制下という極限状況を舞台にしているから、映画は一層緊迫感を増す。誰が本当のことを言い、誰が嘘を吐いているのか、そして一体何が本当なのかを考えてしまう。基本的に誰もが嘘を吐かなければならない言論統制の状況もある。密告したのは誰か。物語はいよいよ複雑になる。
 言論統制をしているにも関わらず、朝礼で歌われる歌や看板に自由平等とあるのが笑えた。アベシンゾウが軍国主義を「積極的平和主義」という意味不明の言葉にして演説していたのと似ている。
 
 ご存知の方も多いと思うが、水仙の学名はギリシア神話の美青年ナルキッソスに由来する。モテモテの彼は寄ってくる女たちと次々に関係を持ち、飽きると捨てていた。しかしエコーというニンフと付き合ったことで運命が変わる。エコーはこちらの言葉を繰り返すだけでちっとも面白くないから、早々に求愛を断ったのが女神ネメシスの怒りを買い、自分しか愛せない人間にされてしまった。ある日水に映った自分の姿を見て恋に落ち、焦がれて衰弱して死んだ。その後に咲いたのが水仙の花だ、という話である。
 チャン先生が何故水仙の絵ばかり描くのか、なんとも悩ましい謎だが、本作品の中では必ずしも明らかにされていない。ただこのギリシア神話が関係していることは間違いないと思う。チャン先生が態度をはっきりさせないところは、実はチャン先生はナルキッソスで、女生徒と女教師が振り回されていたのかもしれない。
 
 台湾映画はあまり観なかったが、本作品のように奥が深く立体的でサスペンスフルな映画を製作できるレベルにある訳だ。儒教的な考えがどうしても底流にある韓国映画よりも自由度は高そうである。台湾という国家が言論統制へ後退する危険性も常にあることは忘れてはならないと警鐘を鳴らす作品でもあると思う。とにかく面白かった。

映画「8時15分 ヒロシマ 父から娘へ」

2021年08月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「8時15分 ヒロシマ 父から娘へ」を観た。
 
 原子爆弾の構造について小学生の頃に学校の図書館で調べたことがある。一番の衝撃は爆発の熱が理論的には摂氏5000万度に達すると書かれていたことだ。実際の原爆は中心部で摂氏250万度、地表で摂氏3000度くらいだったようだが、それでも想像の出来ない温度である。本には人体に長期的な悪影響を及ぼすガンマ線が広範囲にわたって照射されるとも書かれていた。
 
 それほどの熱と放射線を発出する巨大なエネルギーを、民間人が多く住む市街地へ投下した理由は何か。当時の日本の軍部の徹底抗戦の方針は暗号を完全に分析していたアメリカに伝わっていた。このままでは日本全土が焼け野原になってしまうまで、日本の軍人は抵抗するだろうとアメリカ側は懸念した。そこで民間人の犠牲を出してでも原子爆弾を使用して、軍事力における彼我の差を明確に知らしめ、日本に負けを覚悟させる必要があった。加えて、連合国内の力関係もあり、いち早く核兵器を開発したアメリカがその威力を列強に見せつける目的もあった。つまり軍事的、政治的な思惑で原爆は投下された訳である。人道的な見地との葛藤もあったようで、必ずしもアメリカの思惑は一枚岩ではなかったが、最後はトルーマン大統領が決定を下した。そのように言われている。
 
 そんな原爆に至近距離で被爆した美甘進示(みかもしんじ)さんは、原爆を落とした人を責めるつもりはすこしもないと言う。パイロットはエノラ・ゲイを命がけで飛ばして広島までやってきたと彼は言う。おそらくではあるが、進示さんの言葉を敷衍すると、大統領の意思決定からエノラ・ゲイがヒロシマでリトルボーイを投下するまでに多くの人々が関わっているが、そのすべてを責めないという意味だと思う。
 起きている事態は戦争なのだ。戦争だから何をやってもいいという訳ではないという議論はある。しかし東アジア及び東南アジアで日本軍がやってきた残虐行為は、戦争だから何をやってもいいという訳ではないという議論で言えば、非難の対象である。原子爆弾もまた然りだ。
 
 許すことは許してもらうことでもある。戦争は許さない心が始める。許さないことは許してもらえないことである。つまり寛容の相手は寛容または不寛容だが、不寛容の相手は不寛容しかない。進示さんの言葉は重い。寛容は不寛容に対しても寛容でなければならない。人類がその覚悟を持ったときにはじめて、戦争がこの世から姿を消すのかもしれない。

映画「アウシュヴィッツ・レポート」

2021年08月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アウシュヴィッツ・レポート」を観た。
 クラシック曲をときどき聞く。年に何度かはクラシックのコンサートやリサイタルに出かける。毎年出かけているオーチャードホールのニューイヤーコンサートでは必ず「ラデツキー行進曲」が演奏される。作曲はヨハン・シュトラウス一世だ。「美しく青きドナウ」も屡々演奏される曲である。こちらはヨハン・シュトラウス二世の曲である。いずれもオーストリアのウィーンの音楽家だ。
 本作品ではアウシュヴィッツで音楽が演奏されていたことが紹介される。前述の2曲も演奏されていた。クラシック好きとしては軽いショックを受けたが、戦場ではないアウシュヴィッツのような場所を管理するナチス親衛隊にも、ストレスを発散させる機会が必要だったのだと理解した。
 本作品は事実に基づいているとのことだ。当方は不勉強にして、アウシュヴィッツで何が行なわれていたのか、本作品を観るまで知らなかった。ただユダヤ人が機械的に収容されて番号の入れ墨を入れられ、順番にガス室で殺されているのだと思っていた。しかし収容されたのはユダヤ人だけではなく政治犯やホモセクシュアルなどもいた。生物化学兵器の実証実験の検体となって殺された人々が数多くいた。それ以外にも逃げようとしたり歯向かったりしてその場で銃殺された人もいたようだ。中には門の梁に吊るされて、時間をかけて縊死した者もいた。
 収容所を脱出した二人の若者の言葉が印象深い。
 こうしている間にも刻一刻と人が殺されている。
 アウシュヴィッツの人々が望むのは空爆によって収容所が破壊され、自分たちも死ぬことだ。
 大事なのはこの事実を知って何をするかだ。
 二人の若者が情報を託すべきは本来は全世界の人々である。そのためには財力のある者、多くのコネを持つ者に一旦預けるしかない。若者たちのもどかしさと苛立ち、そして不安をこちらも共有した。
 情報は全世界に行き渡っただろうか。我々は中学校の歴史でアウシュヴィッツで何が行なわれていたかを学習しただろうか。少なくとも当方にはその記憶はない。高校の世界史でも近代史はカットされていた。遠い昔の出来事も大事かもしれないが、十年後や百年後の未来を考えるためには近代史の学習が欠かせない。現在の歴史教育のカリキュラムは、我々から考える材料を奪っているのだ。
 アウシュヴィッツ・レポートの内容を知っていれば、人間が極限状況に追いやられたとき、ごく普通の人間がどれほど残酷になってしまうのか、あるいは従順になってしまうのかがわかる。戦争は国家にとっては利益を得るための人的物的投資なのかもしれないが、個々の戦場や収容所においては人権と人格を蹂躙する恐ろしい現場になってしまうのだ。それを理解することができる。そして考える。戦争を起こさないために我々は何をすべきか。アウシュヴィッツ・レポートは現在の義務教育にあってこそ必要なのだ。
 しかし憲法を教えないで道徳を教えようとする国家主義の政権はむしろその逆を行く。戦争は善、負けるのが悪だと。義務教育の授業でアウシュヴィッツ・レポートが紹介されることは、これからも期待薄だ。しかしインターネットの時代である。拡散することはできるだろう。

映画「Honest Thief」(邦題「ファイナル・プラン」)

2021年08月02日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Honest Thief」(邦題「ファイナル・プラン」)を観た。
 
 悪役がいい。学生時代にアメリカンフットボールで鍛えたみたいな体型に顎の大きな悪役ヅラだ。このジェイ・コートニーというオーストラリアの俳優さんは、なかなかの存在感である。これからも悪役で活躍し続けそうだ。
 今回のリーアム・ニーソンは珍しく泥棒の役。基本的に善玉の役しかしないから、敵はそれ以上の悪役となり、当然のように悪徳警官がその任を果たす。警官がFBIなのは、現金を強奪したのが複数の州の銀行だからだろう。
 相変わらず家族第一主義のアメリカ映画だが、今回の家族は新しい恋人である。ケイト・ウォルシュは53歳だが、本作品ではかなり若く見える。演じたアニーは大学院を卒業しようという年齢だから、卒業がどんなに遅くても30歳より前だ。大胆な配役だが、撮影当時68歳のリーアム・ニーソンに合わせたとも言える。ハリウッドの俳優陣はいくつになってもとても元気である。
 ストーリーはアクション映画の例にもれず、絶望的な状況に陥った主人公がこれまでに培った力量ととっさの判断力を発揮し、幸運にも助けられて危機を脱出する話だ。予定調和だから安心してみていられる。マイヤーズ捜査官役のジェフリー・ドノヴァンがいい味を出していた。

映画「ジャングル・クルーズ」

2021年08月02日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ジャングル・クルーズ」を観た。
 
 スカーレット・ヨハンソンがディズニーを訴えた。今年(2021年)の7月29日のことである。映画「ブラック・ウィドウ」の公開について、劇場公開と同時にディズニーがDisney+でストリーミングサービスを始めたからだ。ヨハンソンは劇場の興行収入に対しての歩合をもらう契約だったから、ストリーミングされて来場者が減少してしまうと彼女の取り分が減少してしまうというのが理由である。流石に権利は堂々と主張するお国柄だ。この訴訟で彼女が非難されることはない。
 
 本作品もディズニー作品で、もしかするとDisney+で同時配信しているのかもしれないが、当方は映画は映画館で観る主義なので、縁がない。ネズミーランドの人気のアトラクションを実写映画化したらしい。当方はそのアトラクションを利用したことがないが、CGIを駆使した本作品に比べれば実際のアトラクションはかなりショボいと思う。ショボいが、映画とはまったく違う体感がある。だから映画の観客はその体感を想像力で補いながら鑑賞する。ディズニー作品はそれがとてもやりやすく出来ている。本作品も例外ではない。
 ザ・ロックことドウェイン・ジョンソンはアクションばかりではなく喋りも上手い。相手役のエミリー・ブラントが割とヒステリック系のヒロインの役が多い(本作品でもそうだった)のに対して、ザ・ロックは善玉も悪玉もモブキャラもできる。29歳でプロレスラーから映画デビューし、今年で49歳、俳優のキャリアは20年になる。印象の強い俳優で、本作品でも鑑賞後に思い返すのはこの人のアクションや表情がほとんどだ。ブルーバックやグリーンバックのスタジオ撮影が多いのだろうと思うが、そんな環境でも表情豊かに演じきる。ザ・ロックとCGIとの相性は意外といいのかもしれない。
 ストーリーはベタそのもので、不可能と思えた冒険だが、やってみればできてしまう。人間関係は最悪の出会いから試練を経ていい関係になる。もはや水戸黄門みたいにおなじみだが、それなりに爽快感はある。日頃のストレスやもやもやをザ・ロックが代わって吹き飛ばしてくれる映画である。楽しかった。