ケセラセラ誠意がなくてオーラなし
議事録をつくればいつか手が後ろ
マスコミを手先に使い人のせい
もう二度とその手は食わぬジミンガー
防人に票集めさすへたれかな
恥という言葉の風化民主から
声だけで党派が分かる嘘吐き度
誰にでも月に7万もまたも嘘
腹もなく芸もないのが野田狸
かくなれば月光仮面西田かな
←反民主党の方はクイックをお願いします
ケセラセラ誠意がなくてオーラなし
議事録をつくればいつか手が後ろ
マスコミを手先に使い人のせい
もう二度とその手は食わぬジミンガー
防人に票集めさすへたれかな
恥という言葉の風化民主から
声だけで党派が分かる嘘吐き度
誰にでも月に7万もまたも嘘
腹もなく芸もないのが野田狸
かくなれば月光仮面西田かな
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新聞の悪口となると、忘れてはならないのに文章がある。学者で名文家というのも滅多にいないが、強いて挙げるとすれば、清水幾太郎あたりではなかったろうか。その清水が『私の文章作法』のなかで、「新聞の真似はいけない」という章をわざわざ立てて、糞味噌にけなしている。清水自身が昭和16年の夏から昭和20年の末まで、読売新聞の論説委員をやったこともあるのに、わざわざ書いているのだから、よほどのことなのである。何が悪いかというと、中立不偏を表看板にしているために、主観の入らぬ文章に慣らされてしまっているからだという。発行部数を何百万部も維持するには、できるだけ多くの人に購読してもらわなくてはならない。旗幟鮮明にしない方が得策なのである。清水によると、「新聞の文章は、記者個人が書いた文章というよりは、新聞社の企業体の書いた文章なのです」という結論になる。皆さんもぜひ、今日の新聞の社説を読んでみればいい。いくら読み返しても理解できないはずだから。これに対して、文章を世に問う本来の目的は、自分の意見を主張したいからではなかろうか。それだけに、一度新聞記者稼業に身を染めてしまうと、個性的な思想家や評論家にはなれないのである。まだまだ新聞記者が名文家だと思っているうちは、本当のジャーナリストはなかなか育たないのである。
←主観の入らぬ文章は無責任だと思う方はクイックを