初めて目にする光景であるにもかかわらず、以前見たような気がするのはなぜだろう。橋川文三は『日本浪漫派批判序説』で、『徒然草』の「またいかなる折ぞ、たヾ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かヽる事のいつぞやありしがと思へて、いつとは思ひいでねども、まさしくありし心地のするは我ばかりかく思ふにや」との一節を引いて、擬回想と呼ばれる心理状態を論じていた。北原白秋作詞、山田耕筰作曲の「この道」を聴くと、切ないものがこみ上げてくるのに似てはいないだろうか。日本という国家が瀕死の重傷を負っているため、危機に際して、私たちが忘れていた大切な何かが、自分の足元から訴えかけてくるのだ。「この道はいつか来た道/ああそうだよ/あかしやの花が咲いてる」。橋川は学者であることにこだわったから、ゲーテのような詩人にとっては、「いつも良い効果をもたらした」と指摘しながらも、「このような経験においては、いわば時間と空間という感性の先天的なワクが崩れ去り、流動化し、人間のエゴは小児のように茫然と自失する。それが病的なものであることは間違いないであろう」と釘を刺した。「この奇妙な現象」に興味を持ちつつも、単なるロマンチストにとどまったのだ。保守民族派の運動が高まってきているのは、「いつぞやありしがと思へて」といった光景に促されて、日本人としての詩的感性がメラメラと燃え上がっているからだ。マグマのような情念が、日本人を揺さぶらずにはおかないのであり、そのエネルギーが平成維新を実現させるのである。
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