草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

保守民族派運動の高揚はマグマと化した日本的情念の爆発だ!

2012年02月04日 | 思想家

 初めて目にする光景であるにもかかわらず、以前見たような気がするのはなぜだろう。橋川文三は『日本浪漫派批判序説』で、『徒然草』の「またいかなる折ぞ、たヾ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かヽる事のいつぞやありしがと思へて、いつとは思ひいでねども、まさしくありし心地のするは我ばかりかく思ふにや」との一節を引いて、擬回想と呼ばれる心理状態を論じていた。北原白秋作詞、山田耕筰作曲の「この道」を聴くと、切ないものがこみ上げてくるのに似てはいないだろうか。日本という国家が瀕死の重傷を負っているため、危機に際して、私たちが忘れていた大切な何かが、自分の足元から訴えかけてくるのだ。「この道はいつか来た道/ああそうだよ/あかしやの花が咲いてる」。橋川は学者であることにこだわったから、ゲーテのような詩人にとっては、「いつも良い効果をもたらした」と指摘しながらも、「このような経験においては、いわば時間と空間という感性の先天的なワクが崩れ去り、流動化し、人間のエゴは小児のように茫然と自失する。それが病的なものであることは間違いないであろう」と釘を刺した。「この奇妙な現象」に興味を持ちつつも、単なるロマンチストにとどまったのだ。保守民族派の運動が高まってきているのは、「いつぞやありしがと思へて」といった光景に促されて、日本人としての詩的感性がメラメラと燃え上がっているからだ。マグマのような情念が、日本人を揺さぶらずにはおかないのであり、そのエネルギーが平成維新を実現させるのである。


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石原慎太郎は日本のために最後のご奉公をすべきだ!

2012年02月04日 | 思想家

 今さら石原慎太郎ではないとは思うが、だからといって、それに代わるだけの人材は見当たらない。一日でも長く生きて、日本のために頑張ってもらうしかないのである。ここにきて石原も、守るべき価値は、日本の伝統であり、国体であることに、ようやく気付いたのではなかろうか。石原は若いときに、共和制にこだわって、三島由紀夫と激しくやりあったことがあった。「ぼくは天皇を最後に守るべきものと思っていないんでね」(『尚武の心』・三島由紀夫対談集・守るべきものの価値)と述べて、三島を怒らせてしまったのだった。そこでの発言から推測して、フランスのドゴールのように、石原は自分が大統領になりたかったのだと思う。しかし、派閥を形成し、新たな政治的潮流をつくるのには失敗した。さらに、一発でもいいから核兵器を手にして、日本の存在をアピールするのも、夢物語に終わった。それでも、石原は国政刷新への意気込みをもっているとすれば、もっと別な価値観ではなかろうか。「やはりぼくは世界のなかに守るべきものは僕自身しかないね」と主張していた石原が、国家のために、捨て身で戦うかどうかが問われるのである。石原や江藤淳は、三島と違って、日本的なものの桎梏から解放されることを、自分たちの文学的なモチーフにした。しかし、江藤は晩年は日本の伝統に回帰した。三島から「自己放棄に達しない思想というのは卑しいし思想だ」と戒められた言葉を思い起こし、石原は最後のご奉公として、政界再編の起爆剤になり、国の大儀に殉ずるべきなのである。

 
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