秋風が身にしみるようになってきた。この季節になると、決まって芭蕉の句が思い出されてならない。「野ざらしを心に風のしむ身かな」「猿(ましら)聞く人捨子に秋の風いかに」の二つの句である。人の世のあてどない歩みは、最終的には白骨をさらすだけであり、それが野ざらしになっているのが胸に迫るのである。しかも、人生を旅にたとえるならならば、途中で行き倒れになるのが、ある意味では理想ではないだろうか。そして野辺に屍を横たえるのである。そこに吹き渡る風が天空に魂を運んでくれるのではないだろうか。もっと切ないものがこみあげてくるのは、捨て子が放置されている情景を詠んだ句である。そこに人生のつれなさが感じてならない。人命尊重の観点からも、本来であるならば、抱きかかえて助けてやるべきであるのに、それを無視して通り過ぎてしまう。そこに人の世のはかなさを見るのが、日本人の常なのではないだろうか。芭蕉は「いかにぞや、汝父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を憎むにあらじ。母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙なきを泣け」と言ったのである。「野ざらし紀行」に収録された二つの句から、いかんともしがたい運命に翻弄されるのが人生であることを、還暦を過ぎてようやく私も身につまされるようになった。老いにさしかかって、どこまで歩いていけるかは心もとない。しかし、歩けるところまで歩きたいと思う。
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