去る30日の中秋の名月は、酒にもありつけずに、忙しく過ぎてしまった。暑い夏が過ぎて、会津もひんやりとした季節になってきた。井伏鱒二の詩などを、心静かに噛みしめたくなるのは、私が還暦を迎えたこともあるのだろう。「今宵は中秋名月/初恋を偲ぶ夜/われら万障くりあわせ/よしの屋で独り酒をのむ」。今夜あたりは冷酒ではなく、熱燗をお猪口で飲んでみようと思う。「よしの屋」というのは、新橋にあった縄のれんの飲み屋である。とくに私が気に入っているのは「春さん蛸のぶつ切りをくれえ/それも塩でくれえ/酒はあついのがよい/それから枝豆を一皿」の一節である。ぶっきらぼうな言い方が、かえって人間臭さを感じる。春さんとはその店の親爺だそうで、野々上慶一の『思い出の小林秀雄』によれば「チャキチャキした下町風のかみさんと二人で」やっていたという。最近は酒の席でからんだり、喧嘩をしたりするのも、ほとんど見かけなくなってしまった。不満とか不平とかをぶちまける場もなくなって、それこそ歩きながら、独りでぶつぶつつぶやいているのだろうか。井伏鱒二のペーソスというのは、庶民の人情の機微を熟知していたからだろう。『厄除け詩集』を引っ張り出して、それを酒の肴にすると、酔いが回るのが早いから不思議である。私の人生に救いがあるとすれば、井伏鱒二や小林秀雄の書に親しむことができたことだ。酒の有難さが身に沁みるのも、そのせいではなかろうか。
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