差別とかいうことが世間の話題になっている。橋下徹大阪市長の出自を取り上げた週刊朝日によって、とか在日とかが人々の口の端にかかるようになったからだ。同年代の作家として私が畏怖するのは、今は亡き中上健次である。少しも作家と感じさせないような雰囲気がありながらも、その作品は何度読んでも読み飽きない。中上の小説を論じる力量がない私は、吉本隆明の「中上健次」の追悼文を引用するしかできないが、「差別・被差別の壁を解体して、地域の自然の景観の問題にかえした」との論評は的外れではない。吉本は「わたしたちの思想的な常識では被差別の問題は、外部からするひいきのひきたおしの同情か、内部からする力みかえった逆差別の脅迫によって、差別の壁を高くすることにしかなっていない」と現状を認めつつも、それを突破解体するのに、中上が果たした役割を高く評価した。中上の作品に登場する人物たちが、日雇い人夫であったり、こそ泥やかっぱらいをやってそれを使い果たす若い衆であっても「みんな高貴な魂や聖なる山霊や地霊をこころにも体にも吹き入れられた神聖な存在なのだ」と書くとともに、女たちについても「酒場のあばずれのような存在で、けもののような性交にふけるのに優しい献身的な愛をもっている」と絶賛したのである。中上文学の立ち姿にこそ目を向けるべきではなかろうか。吉本の言うように「被差別と差別の問題は中上健次の文学によって理念としては終わってしまった。あとは現実がかれの文学のあとを追うだけ」なのだから。
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