人が困っているときに手を差し伸べるのが保守である。助け合うことの大切さを自覚しているからだ。日本語で哲学を語った者たちとして、西田幾太郎を始めとする京都学派の著作に目を通すことができる。そのなかでも私がすぐに取り上げるのは、高山岩男である。小中学校の教師になろうとする若者に向って、懇切丁寧に説いた哲学は、私たちに考える材料を提供してくれる。とくに私が高山に魅了されるのは、助け合うことの意味を掘り下げた「協同主義の哲学」である。利益を追い求めるだけの結合社会ではなく、協同社会は「自己一身の私益を自ら制御する禁欲の精神を蔵している社会」である。禁欲を通った利益につて、高山は「単なる利益と言うものではなくて、福祉と言うべきものである」と定義する。そして、「福祉というときにはそこに既に道徳性が含まれている」と主張する。そこで持ち出されるのは、快楽と幸福との違いだ。「快楽の特徴はその反対の苦痛と共に、肉体的であり局所的であり、肉体が異なる以上は共感できないというところにある」のに対して、幸福はまったく別なのであり、「肉体的局所的のものではなく、他人と共感できるものである。幸福は家族全体が頒ち合うことができるし、不幸な民族全体がこれを味わい悲しむことができる。幸福はすなわち精神的なもの、協同的なものである」と解説している。その部分の文章だけでも、かなりの説得力がある。私たちが目指すべきは、結合社会ではなく協同社会なのである。
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