御題目9条教はカルトなり
核兵器脅かされても平和ボケ
何もせず降伏すればチベットに
何もせず殺されるだけ9条で
何もせず対話で解決絵空事
冷戦の思考のままの護憲かな
公正な諸国民などどこにいる
アメリカと自衛隊の平和なり
核を持つ国に向かって平和説け
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法哲学: 現代語訳 |
御題目9条教はカルトなり
核兵器脅かされても平和ボケ
何もせず降伏すればチベットに
何もせず殺されるだけ9条で
何もせず対話で解決絵空事
冷戦の思考のままの護憲かな
公正な諸国民などどこにいる
アメリカと自衛隊の平和なり
核を持つ国に向かって平和説け
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明日の憲法記念日を前にして、憲法とは何であるかをもう一度再考すべきではないだろうか。この時期になると世論調査が行なわれるが、まずはそれを議論すべきなのである。よく誤解されるのに「国民主権」という言葉がある。国民の意志が絶対であるという解釈は間違いだ。あらかじめ人間として目指すべき法の理念が定まっており、そこから逸脱することは許されないからである▼尾高朝雄の『法哲学』では、そのことが明解に述べられている。「ルウソオの思想にあらわれているとおり、国民主権主義の根本概念たる国民の総意とは、現実の国民すべての意志ではなくて、常に正しかるべき法の理念でなければならぬ。正しい法の理念にもとづき、国民の公開討議によって政治の筋道を規律して行くというのが、民主主義の下での主権概念でなければならぬ。故に、主権とは、すべての法の上にたつ最高の権力ではなく、一切の権力を規制すべきノモスにしたがうことであり、法的な正しさを自主的に追求するところの責任である」▼国民主権主義が衆愚政治に向かわないためには、一定の歯止めがなくてはならず、それぞれの国柄に応じた「ノモスにしたがうこと」を尾高は主張したのである。今の日本国憲法の「国民主権」にしても、書かれている文面をそのまま読むのではなく、その奥にある思想を理解しなくてはならないのである。賛否を問う前に、本質的な憲法論議が先なのである。
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