どんな人間であろうとも死にたくはないはずだ。だからといって、公のために殉じた者の死を論うことができるだろうか。坂口安吾は『堕落論』で「私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に賛美する」と書いている。「強要せられたる結果とは云え、凡人も亦かかる崇高な偉業を成就しうるということは、大きな希望ではないか。大いなる光ではないか」と弁護したのだ▼無頼派の安吾は、人間としての純真無垢さに共鳴したのだろう。太宰治も安吾も無償の行為に常に念頭に置いていた。日本の戦後をリードした進歩的文化人は、そのことの意味が理解できなかった。打算を突き抜けた境地に達しなければ、行動を起こすことは難しい。日本で革命が起きなかったのは、そのために身を捧げる人間がいなかったからだ。滅私奉公の精神の欠如なのである。実際には信じていないから、革命も机上の空論にとどまった▼「愛国殉国の情熱」を否定するのではなく、そのパトスがどこに向かうかなのである。言葉遊びに時間をつぶし、挙句の果てに口舌の徒では、社会変革など夢のまた夢なのである。切羽詰まってはいては、国のために身を挺して戦った者たちは偉大であり、それを単純なイデオロギーで裁くべきではない。「凡人も亦かかる崇高な偉業を成就しうる」ということの重要性に気付くべきなのである。
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