鳩山政権が政治と金の問題で追い詰められているときに、あたかも日本共産党が助け舟を出すかのように、鳩山由紀夫首相と志井和夫共産党委員長の会談が行われたのは、あまりにもタイミングがよすぎるよ。建設的な野党というのは、そういうものなんでしょうかね。鳩山首相も、ここぞとばかりリップサービスをして、新年度の予算編成にあたって、大企業の内部留保への課税や、所得税の最高税率の引き上げ、証券優遇税制の見直しを約束すると表明したんだよね。本来であれば、鳩山首相や、民主党の小沢一郎幹事長の首を取るべきなのに、共闘したがっているような感じすらするよね。うがった見方をすれば、永住外国人への地方参政権付与の法案が提出されることになっているんで、民主党と友党関係になっている中国共産党から、「鳩山政権を支えてくれるように」というような働きかけが、日本共産党へあったんじゃないかと思ってしまうよ。日本共産党と中国共産党との関係も、今までになく親密なようだし。それと同時に、真の意味での共産主義国家(労働者国家)というのはこの世に存在したためしがないんだよね。労働者への同情を禁じえなかったシモーヌ・ウェーユですら、「労働者国家というものは、1871年におけるパリの数週間、および1917年と1918年とのロシアにおけるおそらく数ヶ月以外には、地球の表面にいまだかつて存在しなかったのである」(『抑圧と自由』・石川湧訳)と論じていたっけ。そして、シモーヌは「他のいかなる国にもまして抑圧的な、資本家的でも労働者的でもない国家が支配している」として、ソ連を批判したんだよね。そんなわけだから、共産主義のイデオロギーは、過去の遺物になってしまったんで、日本共産党も、万年野党でいるのに飽きてしまったこともあるんじゃないの。さらに、民主党と日本共産党は、両方とも独裁政党で、物言えば唇寒しということでは共通しているし。体質的にはまったく同じだから、仲良くなれるわけだよ。
鳩山由紀夫首相は、自民党の谷垣禎一総裁との党首討論で、母親から金を無心したことはないと言い切ったけど、誰もそんな言葉を信じないよね。そうでも弁明しなければ、首相の座を保てないから、嘘をついているだけでしょう。「天地神明に誓って」と言われれば言われるほど、かえって眉唾物に思えるよ。言行一致を旨としていた会津の武士にとっては、嘘をつくというのは、卑怯なことだったんだよね。嘘というのは、自分を弁解したり、逃げ回る口実として用いられるわけだから。白虎隊の生き残りで、東京帝国大学総長などを歴任した山川健次郎の家庭では、嘘という言葉自体が存在しなかったんだって。娘照子が執筆した『吾亦紅』でも、「我が家の第一の悪徳は虚言であった。私達子供はもとより、召使達もまずこの悪徳の第一を教えられたものである」というように、謹厳実直な山川らしいエピソードが書かれていて、ついつい感心させられるよね。「フロックコートを着た乃木将軍」と評されるだけあるよ。総理大臣を蹴った男として知られる伊東正義も、「嘘をつかない」というのを政治信条にしていた。伊東も会津藩士の血が流れていたので、嘘をつくことには、ためらいがあったんじゃないかな。鳩山首相や、民主党幹事長の小沢一郎が、秘書のせいにして、知らぬ、存ぜぬを通そうとしているのって、嘘を恥じる会津の武士には考えられないことだよ。
鳩山由紀夫首相が「平成の脱税王」と呼ばれ、最大与党の民主党幹事長である小沢一郎が金まみれなわけだから、現在ほど日本の政治が混乱し、政治家の権威が失墜している時代はないよね。江藤淳は『崩壊からの創造』のあとがきで、世界崩壊を目のあたりにした感慨を書いていたっけ。「大学を中心にして、時代は急速に崩壊の兆候を示しはじめた。昨年の秋に国の外に出てみると、世界もいたるところで崩壊しつつあるように見えた。私はもっと崩れろ、もっと崩れろ、と念じずにはいられない。なぜなら私はこの瞬間を待っていたからであり、それとともにすべての偽善と虚飾が洗い流されるのを待っているからである。自然の律動はもろもろの仮構が崩れ去ったあとでなければよみがえらない。そう思って現状を見ていると、すべては望ましい方向に徐々に推移しつつあるように見える」。学園紛争が吹き荒れていた昭和44年のことだけど、あのときよりも今の方が崩壊は大規模だし、足元から崩れてきている気がしてならない。それでいて、江藤のように「すべては望ましい方向に徐々に推移しつつあるように」思えるのは、崩壊を体験することで、かえって創造へ向かうことになるからでしょう。自民党政権が倒れ、政権交代をした民主党を中心にした鳩山政権は、政治への信頼を大きく損なうことばかりしている。でも、悲観する必要はないよ。それがかえって国を思う者たちを結集させ、行動へと駆り立てる原動力になるんだから。災い転じて福としなくては。
民主、社民、国民新党の与党三党は、沖縄の米軍普天間飛行場の移転先について、具体案の提示を見送ることにしたんだって。まるっきり責任がないよね。社民党はグアム移設、国民新党は名護市陸上部の移設案を示すつもりでいたはずなのに、どちらも実現性に乏しいのを認めたみたいなもんだよ。さもできそうなことを言っておいてこのざまだから、交渉先のアメリカが馬鹿にするのはあたりまえだよね。米軍普天間飛行場の役割というのは、極東の一角で火の手が上がった場合、すぐに展開可能な海兵隊をどこに配置すべきかということじゃないの。韓国や台湾にとっても死活の問題のはずだし。佐伯喜一は「自衛隊プラス日米安保条約という安全保障方式は、絶対的なものでも完全なものでもないであろう。そこには若干の危険と多くの欠陥が指摘できるかもしれない。しかし、他にはこれに代わるべき、より効果的でより危険の少ない対策がない以上、この方針を貫いてゆく以外に対案がないように思う」(『日本の安全保障』)と書いていたっけ。昭和41年に発行された冊子であっても、現在も大筋では間違っていないよ。与党三党や鳩山政権は、もうお手上げ状態のようで、やる気がないよね。あっちも、こっちも顔を立てようとする鳩山首相のいい加減さが、日本を破滅に導くこともあるのに。日本人の微笑に注目した外国人に、ラフカディオ・ハーンがいた。ふさわしくない場面でも微笑を浮かべることで、外国人に怒りを呼び起こしてしまうことがあるというんだよね。『日本の面影』のなかで、ハーンは、一つの例として、夫を亡くした女が、笑いながら語ってくれたというのを挙げていたと思うよ。鳩山首相がオバマ大統領に発した「トラストミー」というのも、社交辞令で微笑したのと同じではないの。かえって勘違いさせて、相手をエキサイトさせることになるんだよね。そうだったらば、もう少し沈痛な面持ちで、言葉少なに語ればいいいのに。ここまでくると、やることなすこと、アメリカに舐められっぱなしだよ。それでいて、対等な日米関係とはよくぞ言ったものだ。
民主党の小林千代美衆議院議員が、北海道教職員組合から1千数百万円の違法な選挙費用を受け取ってた疑いで、北教組本部に対する家宅捜査が15日行われたけど、やっぱり脇が甘いよね。もともと上部団体の日本教職員組合は、革命を目指していたわけで、法律なんかどうでもよかったんだよね。だからこそ、やりたい放題のことができたんだよ。そもそも、法律などというのは、支配階級の階級意識から生み出されたイデオロギーでしかないと主張し、これを打破し、転覆しようとしていたんだから。そんな組織に順法精神があるはずがないでしょう。ついこの前までは、教師の立場を利用して、自衛隊や警察官の子弟への嫌がらせをしたり、独裁国家の北朝鮮や中国、革命前のソ連を礼賛していたんだし。そして、自分たちを労働者と位置づけていたんだよね。学校の教師は、現在では一番恵まれた特権階級に属するのに。日教組については、三島由紀夫も危惧していたよ。「私は結婚が遅かったので子供が小さい。上は女の子で小学4年生、下の男の子は二年生だ。子供が小さいから教育だけが気にかかる。とくに今の日本は日教組の連中が教育界を支配しているから困る」(『回想の三島由紀夫』・伊沢甲子麿との対談「三島由紀夫の精神」)と怒っていたから。法を守らない集団として出発した日教組が、自分たちが選挙で応援して誕生した、民主党政権の司法によって摘発されるというのは、皮肉この上ないよね。北教組にとどまらずに、日教組全体に捜査は及ぶんじゃないの。一番頭を頭を抱えるのは、いうまでもなく民主党の小沢一郎幹事長だと思うよ。参議院選挙に影響がないわけがないから。
政治家はやっぱり顔じゃないかな。鳩山由紀夫首相や民主党の小沢一郎幹事長の顔はどことなくついていけないよね。小沢はつかみどころがないし、変に正義漢ぶったりして、いけ好かないよな。鳩山は眼が泳いでいるから、嘘をついていることがばればれだよ。どうせ首相は裁かれないのがわかっているから、白々しいいことを言っても許されるわけだし。それから、反小沢と目される国家戦略担当相の千石由人、国土交通大臣の前原誠司、行政刷新担当相の枝野幸男とかも、口を尖らせている印象が強くて、見たくない部類だよね。お坊ちゃん内閣にはふさわしいだろうけど、虫唾が走るよ。映画監督の大島渚が、小沢と同じ田中派だった梶山清六のことを、「いい顔をしている」と絶賛していたっけ。苦みばしったところが気に入ったんだよね。人情味のある悪役という感じがするから、絵になるんだよな。女にも惚れられたんじゃないの。政治が国民から信頼されるには、政治家らしい顔をした指導者が出てこないと。土門拳の言葉に、「美しい顔というのは、感情の表白を控えめにした顔である」(『風貌』)というのがあったっけ。その観点からすると、感情を抑えられない鳩山は、最悪なんだよね。
民主党の小沢一郎幹事長は、法律は数の力によってどうにでもなると思っているのかね。民主党を中心とした政権が誕生してからは、何もかも思いどおりになると勘違いしているみたいだよ。いうまでもなく、実定法が絶対ではないのは確かだよ。尾高朝雄は『法の窮極に在るもの』のなかで、法を成り立たせしめているのが、政治的な力だというのを認めているわけだし。法を法たらしめるためには、憲法がまずなければならず、それを制定する必要があるわけだから。でも、尾高は、そこには大きな制約があるべきだという立場じゃないかな。つまり、自然法の機能をなおざりにはしないんだよね。「古来の学者の説いた自然法は、その根本の内容から見ると、道徳であり、宗教であり、あるいは経済である。ところで、これらのものは、それぞれ法を通じて自己を実現する力をもっている。道徳は、人間共同生活の奥深い基準であり、その理念が良心の琴線にふれるものであればあるだけ、人はこの基準にしたがって行動すべき義務があることを否定できない」と書いていたっけ。これに対して、カール・シュッミットは、その政治的な力を「憲法制定権力」と呼び、正当性よりも、純然たる「事実力」を問題にしたんだよね。つまり、権力があれば何でもできるということだよ。そのシュミット流の法解釈は、尾高に言わせれば「社会民主主義ドイツの法治国家体制を崩壊せしめ、非法の世界にはばたこうとするナチスの運動に万能の翼を与えんがための政治の手段に外ならなかった」ということだけど。小沢の「数は力なり」という考え方も、所詮はシュミット理論の焼き直しでしょう。小沢ヒットラーと批判されるのも、むべなるかだよね。
嘘をついているのがばれそうになると、逆に怒り出すのが人間の習性じゃないかな。去る12日の衆議院予算委員会で、自民党の与謝野馨の質問にうろたえてしまい、鳩山由紀夫首相がむきになって否定していたのも、同じことじゃないの。弟の鳩山邦夫から聞いた話として、「兄が母親から金を無心していた」というのを持ち出されて、気が動転してしまったんだよね。兄弟をやめるみたいな剣幕だったし。それに、言わなくてもいいのに、大声を張り上げて「母親に聞いてください」とまで大見得を切る始末。ワイドショーあたりで、嘘をついているか、本当のことを言っているかを、心理学者にコメントさせれば面白かったのに。ここまでくれば、与謝野から「平成の脱税王」とまで罵倒されても、弁解のしようがないわけだから、もう鳩山をかばうのは限界でしょう。それから、闇将軍である民主党の小沢一郎幹事長も「検察と断固戦う」と言っていたのに、今では「検察が無罪を証明してくれた」とかのたまっているそうで、節操が無いことこの上ないよ。現在の日本の最高権力者二人がこの体たらくでは、国民も政治に嫌気がさすんじゃないかな。そして、参議院選挙前には、この二人を引きずり下ろせない民主党にも、参議院選挙前に愛想をつかすと思うよ。
政治の世界というのは、敵と味方を区別することじゃないかな。それをはっきりさせないと、政治的な力を持つことはできないから。カール・シュッミットは「政治的行動と動機とがそこに還元される特殊に政治的な識別とは、友と敵に関する識別である」(『政治の概念』)と書いていたっけ。つまり、シュッミットは、道徳における善と悪、芸術における美と醜、経済における利益と損失のようなものとして位置づけていた。しかもだよ、その政治上の敵というのは、個人的な恨みつらみではなく、それを抜きにして敵と友とを分けるんだって。また、政治上の敵というのは、目の前に立ちはだかる敵だけではなくて、「少なくとも究極的には敵として戦うことになるかもしれない現実の可能性をもった人々の総体」だとか。さらに、シュッミットに言わせれば、敵に対する相応な行為は、究極的には「物理的抹殺」を目ざすことなんだよね。民主党の小沢一郎幹事長は、「敵を殺せ」とまではいかないにせよ、シュッミット流の政治には長けていたんじゃないかな。そうした権力闘争にあけくれた結果、小沢は独裁者となり、多くの敵をつくってしまった。それが仇となって、今では敵からの猛攻撃を受けて、政治的に抹殺されかかっているということじゃないの。
東北人にとって原敬は英雄でしょう。戊辰戦争の後遺症があったために、東北関係者は朝敵扱いされていたわけだから。盛岡藩の家老加判の一族に生まれたにもかかわらず、原が首相に就任したのは、大正七年九月のことだよ。原が偉いのは、一貫して民衆に媚びなかったことだよ。米騒動のときにも、政友会に自制を求めるのを忘れなかった。民主党の小沢一郎幹事長のように、政権奪取のために社民党とくんで、自衛隊に嫌がらせをするのとは違うよね。原が率いる政友会には、自由民権運動を戦った者たちも加わっていたので、扇動すれば収拾がつかなくなるを知っていたんじゃないかな。冷徹な現実家だったんだと思うよ。鉄道を敷くにあたっては、全国に利権をばら撒いたといわれるし。総選挙の際には、党員たちの求めに応じて、惜しみなく金を与えたともいわれる。一万を請求すれば一万五千円、二万を請求すれば三万円だったそうだから、党勢拡大のためには、手段を選ばなかったんだよね。そうした利権まみれにもかかわらず、原が偉かったのは、贅沢をしなかったことだよ。岡義武が『近代日本の政治家』のなかで「芝公園の古色蒼然とした手狭な家に住んでいた」と書いていたっけ。都内の高級マンションを買いあさったりする小沢のような政治家とは違うよね。来客の待合室の座布団は、継ぎはぎだらけだったそうだし。強引な小沢のやり方は、原と似てなくもないよ。しかし、政治家としての延命のために、マスコミを利用して扇動家になったり、政治で私腹を肥やすというのでは、同じ岩手出身者として、原が泣いてしまうよ。