秀吉の死は直ちに肥前名護屋城にも伝えられた
すでに戻っていた渡海軍のうち、五大老の宇喜多秀家が石田三成、浅野長政ら奉行衆、小早川秀秋ら諸大名を集めて、朝鮮に残っている軍の撤収方法を相談した
一方、京に詰めていた徳川家康は、ただちに軍勢を率いて大坂に向かい、大坂城の秀頼の警護と称して家康は城内にとどまった
前田利家は既に秀吉に依頼されて詰めていたが、そこに家康も来たので今後の国内の安定、朝鮮、明国に対する備えや対処方法を語り合った。
その頃、北政所は秀吉が眠る伏見城で、危急を聞いてやってくる在地武将に何かと返礼の言葉をかけていた。
その中でも福島正則と加藤清正はわが子同様である、しかし清正は今も朝鮮で戦を続けているので、正則は(さぞかし、かかさまは落胆されているだろう、わしが行って虎(清正)の分も孝行せにゃなるまい)と決意してやって来たのだが・・・
意に反して、政所は元気な様子だった。 「市(福島)、早速にきてくれたのじゃのう、やはり持つべきは市と虎じゃ、ありがたやありがたや」
そう言って肩に手を当てて、正則の体を揺らすのだった。
「ご心痛、お察しいたします、お気落しなきよう」
「市よ、この日が来るのはとっくに覚悟していたこと、あの人も全てやり尽して天に召されたのじゃから悔いはないであろう」
わりとさばさば言う、正則はいささか拍子抜けしたが
「殿下は満足されて逝ったのでありましょうか?」と問うと
「あの人は日輪を背負って生まれてきた方なのじゃ」と意外なことを言った
「それはいったいどういうことでしょう?」
「まだ秀吉殿と一緒になる前であった、身分も足軽だし、実家も百姓だと言う、私の両親も兄も心配してのう、最初は結婚に反対だったのじゃ」
「それは聞いております」
「じゃが、あの人は少しも動揺せず、『儂は、ねねさを好いておる、ねねさも儂を好いておる、ならばこの話はうまくいくで、心配せんでもええ』そういうのじゃ」
「ほお どういえばいいやら・・」
「どうしてか?と聞いたら、『儂は日輪を背負って生まれてきたのじゃから、うまくいかんことなど何一つない、心配せんでもええ』とまた言った
なんでも子供の時に、家では義父にさんざん酷いめにあわされていたそうな
それが、ある時、秀吉殿の義父が柿の木から落ちて死んだ、最初は腰が抜けるほど驚いたそうじゃが
その時、急に心に何かが湧き出すような感覚がおこったそうじゃ、腹の底から外に向かって湧き上がってくる力と言うのか
初めて身近で見た人の死、あれほど恐れていた義父が、呆気なく目の前で死んでしまった、死んでしまえばただの躯(むくろ)
それは自分にもいつ起こるかわからん、子供ながらにそう思ったそうじゃ
『人は必ず死ぬ、死ねばただの躯』死に対する覚悟が、その時に出来たんじゃと、それをあの人は『儂の体に日輪が入ったんじゃ』そう言っておった
『どうせ死ぬんだから、やるだけのことをやってみよう、田舎で百姓をやって一生地べたを這って生きるなんぞ、儂はできん』そう思って家を飛び出したのじゃ」
「ふ~ん・・・初めてお聞きしましたぞ」
「その日から、『わしは前しか、いや今だけしか見んようになった、今この時に命をかけようと思ったんじゃ』そのように申しておられた」
「なるほど」
「それからは自分のやることに自信をもって向かっていくことが出来るようになったのじゃと、『まだ来てもいない明日の心配をする奴はアホじゃ、明日のことは明日になればわかる、但し今、何もせにゃ明日危機に陥ることがわかれば、そうならぬように今全力を尽くして阻止する、それは当たり前のことじゃ』と、明日の為の準備は必須だが、明日を心配して悩むのはだめだと言うことだそうじゃ、
『明日まで生きているかどうかもわからぬのが人じゃ、それが明日の心配をしてどうする、そんな心配ばかりするから今がおろそかになる、今を誤らぬよう持てる力の全てを結集して今この時を生き抜くのよ、今この時に全力を尽くせば、日輪様は必ず助けてくれる、日輪様は儂が進んでいる前に大河が現れれば、橋を架けてくださる、知者に問答を迫られれば、溢れるほどの真理を儂の口から吐き出させてくれる
それもこれも日輪様が儂に大きな役目を与えてくれたからじゃ、それは戦国の世を終わらせること、その役割をこの儂一人に与えて下されたのじゃ
もちろん、最初からそう言われたわけではない、日輪様は小さな覚悟から順に与えて下されて、それができると次の少し大きな覚悟を与えてくださる
そうして次第に儂を成長させてくだされたのじゃ』と申されました」
「そう言えば虎も日蓮宗に熱心じゃ、それで肥後半石の大名になれたのかもしれませぬなあ」
「そうかもしれませぬ、信心も日輪を背負う如しかもしれませぬ
あの人は、それからもどんどん出世していった、なぜか問うたことがありました、『それは、儂に迷いがなくなったからじゃ』と言いました、『道が二つあったとしても、儂は迷わない、なぜなら日輪様が教えてくれるからじゃ、それも右だ左だとは言わぬ、どちらでも儂が踏み出した道が正しい道で〈踏み出した道を疑わず、できる限りの知恵と力を絞り出せば、必ず道が開ける〉そんなふうに言われている気がする』そう言うのです」
「しかし、時には金ケ崎の退き陣のように失敗したこともあります、また小牧でも徳川殿に大敗を喫したこともありましたな、あれはどのように言われましたかな?」
「そうじゃ、そうじゃ、そんなこともあった、あの人はどういったと思います? 『儂は大失敗したことなど一度もない、だが小さな失敗は数え切れぬほどしたものじゃ、人間、時には失敗しないといつか取り返しのつかぬ致命的な失敗をするものじゃ
だから小さな失敗はあってもええんじゃ、それは学びじゃ
その学びが何倍の大きさの次の成功につながる、それができん奴は失敗なのじゃ、失敗から学べば・・・学んだだけではだめじゃぞ、それを生かした実行が無ければ、それもただの失敗じゃ・・・金ケ崎の失敗では、わしは身内と言えども油断してはならぬことを学んだ、小牧山の戦では大きなものが、小さなもののところまで下りていけば大であっても小の働きしかできなくなることを学んだ、だから、あれ以後は徳川殿に対して、大きく向かうようにしておる
今川義元が、若き日のお屋形様に敗れたのは、まさにそれであった』
失敗は学んで活かせば失敗ではないとは名言でありましょう」
「いかにも、わしも今日は、かかさまから学びましたぞ」
「市や、大きゅうなっても慢心してはなりませぬぞ」
「?」
「秀吉殿でさえ結局は道を誤りました、そもそも関白だ豊臣だとお公家様の真似を始めたところで日輪様は、秀吉殿の体から抜けて行ってしまわれたのです
秀吉殿は、その頃に日輪様の存在を忘れてしまわれた、あるいは『日輪様などもはや儂の力に及ばぬ』という慢心を持たれたのでしょう
あれから歯車を狂わせてしまった、意味のない唐入りを始めて、敵、味方あわせて数十万も死人を出し、彼の国も我が国も疲弊して民が犠牲になっている
それだけではありませぬ、一番大切な秀次はじめ数少ない身内を滅ぼしてしもうた、自分の力になる虎など大事な大名をいわれなき罪に問うて離れさせてしもうた、あまつさえ私の身内である浅野家にも罰を与えた
私すら、秀吉殿は敵にしようとしたのです、木下吉房さま夫婦は三人の男子全て秀吉殿に身を捧げながら滅んでしまった、夫の吉房どのも流罪
瑞竜院さま(秀吉の姉、秀次の母)の嘆きは見ておられませんでした、幼い孫までも皆殺されたのですから、惨いことです、自分の姉にさえあのような仕打ちをするとは・・・日輪様とは、あの人そのものの生きざまだったのでしょう、自分を信じ通すことが日輪の力、その信念が秀頼がうまれたことで揺らいでしまった、自分の奥深く見つめていた人が、その眼を秀頼に向けてしまった、目が曇ったのです、日輪に雲がかかったのです
あれからの秀吉殿の行動は、すっかり狂ってしまった、冷静に自分を見ることが出来なくなり、それに老いが追い打ちをかけてきたのです」
「太閤殿下がお亡くなりになって、このさき豊臣家はどうなりましょうや」
「何を言うのですか、あなたや虎が大坂城の秀頼を守らなければなりません、まだ5歳の童です、少なくとも10年が必要です」
「しかし、三成ら大坂城の奉行どもが我らを寄せ付けまいとしております、三成こそ豊臣家に仇成す獅子身中の虫でありますぞ」
「それは違います、三成は三成なりに秀頼の将来を万全なものにするため努力しているのですよ」
「ならば我らと共に働くのが良いのでは? だが三成は我らを見下して相手にもしようとしない、しかも殿下に讒言までしたのですぞ、許せませぬ」
「そうなのですか、それならしかたにゃ~が、市と虎は、おみゃーたちが思うように、三成と違うやり方で秀頼を守りなさい」
「わかりました、そういたします」
「決してこれ以上、豊臣家を分裂させてはなりませぬ、やっと訪れた戦国の終わりを元に戻してはなりませんよ、まだまだ機会があれば天下を我が物にしたい者たちがいますからね、秀吉殿の家族はみな力を併せて平和を守って行かにゃーなりませんよ」
「おかかさまの話は、ようわかりました、しかし三成は評判が悪すぎます、儂や虎だけではにゃ~で、いつ誰が怒りをぶつけるかわかりませぬ」
「困ったこと、私が大坂城に入って、そうした者たちを諌めるとしましょう」
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