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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 87  秀吉の陰謀

2022年12月08日 17時47分10秒 | 貧乏太閤記
「皆様方、信長公の御嫡孫であらせますぞ、われらは今日より三法師様、そして織田家を支えていくお覚悟、お頼み申す」信雄が三法師を抱き上げて上座から言った
 皆は一度に平伏した、「いかがでありましょうや、三法師様の跡目相続に反対する者は、おられますまい」
「しかし」まだ勝家は未練がましい
「もはや、決定であるわれら4人は三法師さまで一致したのじゃ、あきらめられよ」今まで黙っていた丹羽長秀が勝家に引導を渡した。
続けて、秀吉が「こうなったからには中将様に新たなお屋形様の後見人になっていただこうではないか」
するとまたしても勝家が「今度はわれらの意見も取り入れていただこう、後見人は三七様にしていただこう」
「ははは、それは良いが、お屋形様に決めてもらうのが筋というものじゃ、二人並んでいただき、選んでいただこう」
もちろん、三法師が飛びついて行ったのは信雄であった
「おのおの方、これで決まりじゃ」
まんまと秀吉と信雄が、あの日描いたとおりになったのだ、信雄は三法師をダミーにして自分が政権運営できると喜んでいるが、秀吉は信孝よりコントロールしやすい信雄を祭り上げて、信雄をコントロールできると満足したのであった、だが信孝にも意地がある
「後見人は信雄でも良いが、三法師様は儂が岐阜城でお預かりしよう、それが折衷案と申すものじゃ、それに後見人の期間も三法師様が元服なさるまでじゃ」
信雄と秀吉は、それを承知したので信孝も一矢報いて満足した。

 毛利は、本能寺に信長が襲われ殺されたという報が入ったとき、毛利領の鞆(とも)にいた足利義昭は飛び上がって喜んだ、すぐに強硬派の吉川元春に遣いを出して
「秀吉を追って岡山、姫路を落し、都を制圧せよ」と命じた
元春も賛同して、毛利輝元に話したが小早川隆景から釘を刺されており
「それはならぬ、約定をたちまち反故にしては毛利の信用は地に落ちまする、叔父上ここは堪忍でござる、秀吉に恩を売っておくのが得策でございますぞ」
小早川隆景は、秀吉に初めてまみえた時、その人柄と強い野心を秘めた勢いに呑まれた、(これは只者ではない)一目で見抜いた。
秀吉のこれまでの実績を思い起こしても、その戦上手ぶりは織田家中にあって群を抜いているのは確かである、安国寺も同じように言っている(もしや羽柴が織田にとって代わるのでは)という思いがよぎって、慌てて首を横に振った。
高松城水攻めの最中二人は講和条件を話し合ったが、余裕なのか、勝者から、分が悪い毛利への譲渡量は大盤振る舞いと言って良いほどのものだった
隆景は、秀吉に「もともとわれらと織田殿とは同盟しておったのだが、将軍が鞆に突然現れたことで、こうなってしもうたのじゃ、毛利家には元就公の家訓があってのう、領土を護り、他国への侵略はしないことになっておる、織田殿もこれ以上の侵入を辞めるならば、われらには戦う気はさらさらござらぬ、これを機会に停戦を承知仕る」そう言って秀吉と和睦したのだった。
その経緯を輝元には話してあった、ゆえに輝元も元春にきっぱりと言うことができたのだった。
無理攻めしても岡山城か姫路城で、宇喜多と羽柴秀長の数万の軍と戦い勝たねば大坂、京へは進めない。 勝算もおぼつかないまま攻め上るのは自殺行為に等しいと思った。

 6月24日ようやく森長可が3週間かけて領内に戻って来た、森はそれでも軍団の体を保っていた。 彼は池田恒興の娘婿であったから池田は大いに無事を喜んだ、秀吉にも引き合わせて領地の安堵と、これからの後援を頼んだ
秀吉にしても味方は多いにこしたことがないから、快く引き受けた。

 秀吉は清須会議以来、味方づくりに余念がない
共に光秀を討った池田、中川、高山、織田信包(のぶかね)、丹羽などの加増に力を入れたし、毛利との同盟関係には特に力を入れている、その後も細々(こまごま)と人心掌握に動いて居る
半面、仮想敵として柴田勝家、織田信孝から目を離さない。
そんな時ようやく滝川一益がボロボロになって岐阜の織田信孝のところにやって来た
「おー! 滝川殿ではないか、無事であったか」
それは敵中を隠れ隠れ逃れてきた苦労が一目でわかる姿であった、
森長可も滝川同様敗残者であったが信濃川中島からの撤退は、南部の木曽氏以外は特に強敵が居たわけでないので軍団の姿のまま、堂々と引き上げて来たから6月に戻れたが、滝川は森よりも更に100kmほど遠くの下野(群馬県)にいた上に、強大な北条軍が5万と言う大軍で襲ってきたのを迎え撃ったのが仇となり、大敗して軍団はバラバラになって逃げ散ったのだ
それから長い逃避行となった、しかも甲斐から信濃には織田に滅ぼされた武田遺臣がここかしこに数十、数百で潜んでいたので時々襲撃されて兵は減っていった、北条に降った真田に見つかれば命はなかったであろう
 甲斐(山梨)と真田の北信濃、西上野の微妙な山中や渓谷沿いに10数名にまで減った滝川達は昼は安全なところを探して寝て、夜になると隠れ隠れ逃避行を行った、そんな風にして2か月かかってようやく美濃にたどり着いたのだった。 「滝川無事」は柴田勝家にも届いた
「生きていたか、よおし滝川がいれば筑前めに一泡吹かせることができる」
柴田勝家と滝川一益は特に懇意ではないが、互いに秀吉がのし上がることに不快感をもっていたのだ、いわば二人の共通の敵は秀吉、信雄であり、それによって味方になれたのである。
「戻ってみれば儂の落ち着き先が無いという、三助殿が儂の領地を家臣に分け与えたというではないか、儂の今の様では聞き入れてもらえぬのだ、どうか力を貸してほしい」滝川は信孝に訴えた
信孝も柴田、滝川と結べば秀吉と信雄に対抗できるのではないかと思う、(ここは滝川に恩を売って、少しでも戦力を持たせることが肝要だ)
柴田勝家と織田信孝の連名で、織田信雄に滝川の領土を返すように申し立てた
そのかいあって滝川に桑名城から長島まで数郡が返されたが、以前より10万石ほど減らされた、滝川の中に不満がくすぶっている。




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