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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 127 石田三成の朝鮮渡海

2023年01月17日 17時10分00秒 | 貧乏太閤記
 朝鮮王は勝利の知らせを受けると大いに喜び、李将軍を南海三道の水軍最高司令官元帥とした、同じ地位にあって戦わずに逃げ出した元均将軍とは正反対になった
これ以前から李将軍と元均将軍は、加藤と小西同様に不仲であったが、元均はなおさら李将軍を恨むようになった、これもまた西人派と東人派の争いが絡んでいる
 巨済島には日本軍が駐屯しているが海上は朝鮮水軍に封鎖されてしまった、2日後には九鬼水軍と朝鮮水軍が釜山沖で衝突した、互いに軽い被害を被ったが痛み分けでそれぞれが引き上げた
朝鮮南部の海域は朝鮮水軍が制海権を得た、その勢いで日本海(東海=トンヘ)にも李艦隊は現れて、江原道から威鏡道へ物資を運ぶ日本船団を襲うようになった。
 このように朝鮮の数少ない名将、李舜臣の活躍で海戦の勝利を得たが、陸路では相変わらず日本軍が有利に戦っている

 対馬から水軍の相次ぐ敗報が名護屋に届いた、それは三成から秀吉へとただちに伝えられた、勝利気分に酔っていた秀吉の思いは、たちまち吹き飛び、いつもの秀吉に戻ると矢継ぎ早に指示を出した。
「治部少、朝鮮の状況は、その後どうなっているか」
「平壌を占領したのち、殿下がおっしゃられた通り朝鮮征討の大将となられた宇喜多秀家さまを中心に、諸将が平壌で軍議を催されました」
「どのような話になった」
「第一次の渡海軍は3か月の戦闘で、一軍から五軍まではおのおの2割から3割が死傷しており、内地に第二次渡海軍を要請してきました」
「なるほど、無理もあるまい」
「されど軍船が整わず、しかも釜山の水軍は九鬼を除けば壊滅的被害を受けました、そのため第二次渡海は見合わせるしかありません」
「それほど深刻なのか」
「はい、それで渡海軍は宇喜多様のお考えで、唐入りを一時見合わせて朝鮮八道の経営を優先し、朝鮮人の人心掌握をはかり現地にて兵の増員と生産を図ることにしました」
「明の動きはどうじゃ」
「明が動いた話は、まだ届いてはおりませぬが兵を義州に進めれば、さすがに動かざるをえませんでしょう」
「明の兵数はどうなっておるのか」
「定かではありませんが、鍋島様の家臣からの話では、朝鮮と国境を接している遼東(りょうとう=ヨドン)城がもっとも近いところで、ここにはおよそ1万が守備しているそうです、その後方はいよいよ明の都「北京」なので、ここには50万の軍勢を10日以内に集めることができるそうです」
「ふうむ、やはり第二陣を送らねばなるまいの」
「さようにございます、しかし先ほど申した通り、軍船でございます。
釜山もかなり指揮系統が混乱している模様なので立て直しが必要かと」
「治部、そなたが釜山へ渡海せよ」
「はは、承りました」
「朝鮮奉行として釜山に奉行所を構え、名護屋と連絡を密にしながら朝鮮の各所に迅速に命令をだすのだ」
「はは、誰を連れて参れば?」
「大谷刑部、増田、長谷川、前野、加藤遠江守、木村常陸介が良いであろう、おのおの知行宛て家臣500~2000を引き連れてゆくがよい、奉行頭はそなたじゃ兵3000を連れていけ、場合によっては平壌までも行くことになるかもしれぬ」
「承知仕りました、潮の具合を見て直ちに出発いたします」
「よし、頼むぞ、対馬まで行けばおおかた朝鮮のことはわかるゆえ、すぐに名護屋に遣いを走らせ対馬にて儂の指図を待て」
石田三成ら選ばれた奉行衆は兵8000を率いて6月10日には対馬に渡った、そこで朝鮮の状況を聞くと、明軍に平壌攻撃の動きがあるらしいとのことであった
三成は那古屋に早舟を送った、すると下旬に秀吉から命令が届いた
「奉行衆は、直ちに釜山に渡り奉行所の準備をいたすよう。
小西、宗は平壌を固く守るよう申し付け、城の防御も高めること
鍋島の軍勢は、いつでも平壌に行くための準備をしておくよう伝える
加藤清正も安平にて待機すること
八道経営は軍団の仕事にあらず、内地より各道の施政代官を送るので代官の到着次第、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景、黒田長政、吉川広家は漢城にて平壌への出撃の準備を整えて待機すること」とあった。
宇喜多秀家の命令は解除されて、秀吉の命令により平安道で日本軍と明国、朝鮮連合軍の一大会戦の様相が出てきた。
奉行衆が朝鮮上陸後まもなく24名の代官が3000名の兵を率いて釜山に上陸した

 明国にとって平壌を日本に奪われると直接日本と対峙することになる、日本の力はまだわからぬが、簡単な敵ではないのは確かだ。
鴨緑江(おうりょくこう=アムノッカン)が朝鮮との国境であり、ここを超えられると明国の遼東半島への侵入となる
この地は、大変重要な場所で、過去には高句麗の重要拠点となって、漢民族の隋や唐を苦しめた土地なのだ、現代では600万の大都市大連があるところだ。
「倭人が義州を占領すれば次はわが国に侵攻するだろう」
 かって明の財政を立て直し、巨額の国庫蓄財をした名宰相、張居正が死去すると豊かな国庫に胡坐(あぐら)をかいて政治を顧みないグータラ皇帝になってしまった万歴帝は朝鮮救援に乗り気でなかった、しかし足元に火がついてさすがに本気にならざるをえなくなった。
「いつでも50万の兵を出発できるよう準備をせよ」命令が下った
この報せを聞いた光海君は大いに力を得た、「朝鮮の人民よ、明皇帝が我らの救援に来てくれる、その前に我ら朝鮮人民が本気で夷敵に立ち向かう姿を明に見せなくてはなるまい、皆立ち上がれ」と全国に檄を飛ばした。
特に義州に暮らしていた昔の将軍や官僚が反応した
「今立たずして、我らの生きる意味があるものか」10人、20人と義侠心にかられた朝鮮人が集団を結成していき、各地に100~1000の義士集団が次々に結成されて、政府軍と連携するようになった。

 こんなふうに日本側でも、明、朝鮮側でも動きがあったが、一番北の奥地威鏡道(いきょうどう=ハムギョンド)に進んだ加藤、鍋島の第二軍は、秀吉の命令が届くには早くても一か月を要したから、7月になっても自分の判断で動いて居る
ここにいる朝鮮の役人は都から追い払われた左遷集団で、王朝に恨みを持っていたから日本軍に協力する者が多かった、特に鞠(クク)兄弟は王族を恨み積極的に加藤に味方した、それで彼らが捕えていた朝鮮王子を加藤清正に引き渡したのもうなずける。
また、この地は度々、北の豆満江(トウマンガン)の向こう岸に住む「オランカイ族(女真族)」から度々襲撃を受けていたから、それを退治するという加藤清正たちを歓迎したのだった。
そして激戦の末、幾つかの集落を焼き払ったが味方の被害も敵と同じほどであった、兵数の差でやっと勝った程度だった、
それはそうだ、数十年後には明を滅ぼして、清国を建国する民族なのだから
これはまだ先の9月頃の話である

女真族は馬を操るのが巧みで、その機動力と連携には目を見張るしかなかった
迂闊であったが、加藤は女真族も明に属する一民族だと思っていた
ところが、それは大きな間違いで彼らは漢民族が恐れる北方の異民族であった
明から見れば日本と女真が戦って互いに消耗すれば、こんなありがたいことはない。
ようやく気付き、加藤たちは威鏡道に戻り、主要な町ごとに武将を配置した
だが奥地や経営が難しい町は、現地の政府不平役人に任せた
こうして威鏡道を加藤と鍋島の両雄が治める形が完成した。







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