秀吉の凄いのは出世レベルですね、名も無い尾張の百姓兼足軽の倅に生まれて、これが江戸時代なら多分一生水呑み百姓で人生が終わっただろうけど、ラッキーな事に手柄次第で出世できた戦国時代、結局ほぼ最下層から日本一の男になったのですから凄いですね、駅伝で言ったら30位でたすきをもらって29人抜きして優勝みたいなもの、しかも20キロ区間でトップと10キロも差がついていたにも関わらず抜いたくらいの奇跡!
因みに信長は愛知県の副知事の息子くらい、家康は岡崎市長の息子くらいかな?
やっぱり秀吉の出世率はダントツですね...すご~い
それから私たちは自由に世界旅行でも出来る(稼ぎ次第だけど)時代に生きてますが、彼らはどこまで行ったのかな?って疑問が
武田信玄は静岡を制し、家康を襲って浜松まで行ってますが奥さんの故郷京都には行けなかったんです、北は長野市まできてますけど、そこまでですかね
それに比べれば謙信さんは戦争で信州や富山、遠く福井までさらに関東一円はしょっちゅう、それから鎌倉、小田原、関東一円の他、戦争目的で無く京都や大阪、堺あたりまで行ったみたいで、しかも京都には2回も行っている、敵ばかりの時代によくぞ行けましたね、それも1回はたいした家来も連れずに行ったらしいし、戦争をするために行ったのでは無く天皇様に拝謁するために600kmの道のりを船に乗ったり、陸路を進んだりして行ったんですね、信玄さんが不可能だったのになぜ謙信さんは安全かつ長期滞在して天皇様にもお会いできて(できたんでしょ?)不思議な人ですよね謙信さんは、義の人というのが謙信さんの人柄、敵さえも謙信には憎しみをもたなかったのではないかと思うほど、自分を頼ってくる弱者を助け自分の欲望を持たなかった人みたいです。
さて3人の中で一番年上の信長は大阪、堺は当然ですがそこより西はどうなんでしょう、ほとんど秀吉に任せてましたから、東は武田征伐で甲府までは行ったみたいですね、あとは伊勢とか岐阜とか、そうそう福井石川県境の手取川で謙信に追いかけ回されて敗走したという話も(そこにはいなかった確率のほうが高い)朝倉攻めで福井市は行ったようですが。信長さんの旅行?はこんなところかな
家康は秀吉の朝鮮攻撃の時、九州名護屋城まで同行してますよね確か...
それから甲府には間違いなく行っているし、東京は第二の故郷で日本一の足がかり、関東周辺は見て歩いたかもしれませんね、上杉攻めでは栃木の小山まで来てましたね、もう少しで会津若松まで行けたんですが
それから福井の金ヶ崎では秀吉、信長揃っていましたね、で家康はこのあたりまでかな、でも九州見物しましたね。
いよいよ秀吉ですが姫路に別荘をもらってそこから岡山、広島目指して居たときに信長が殺されてスピードオーバーで大阪までぶっとばし光秀を討ち果たしたのですが、それから勝家を賤ヶ岳で破ったのもこれもスピード違反の猛突進、まさに暴走族のはしりですね 当時、馬で遠乗りするのは現代のドライブなんでしょうね
で南は島津攻めで九州福岡、大分くらいまで行ったのでしょうか、四国征伐でも香川県くらいまで行ったかも、北陸は新潟県の西、親不知の勝山城で謙信の養子上杉景勝と和平会談したとか、東は小田原攻めが一番遠くでしょうかね
海外となれば秀吉は実際に朝鮮半島の侵略を実行して家臣は北朝鮮まで攻め込んでいますし、本人は朝鮮は通過して中国を占領して天皇をお迎えして、狭い日本は甥に譲ると言ったとか歴史小説によくでてきますよね、
また信長が生きながらえたら、強力な海軍を作って南蛮貿易に出かけ、フィリピン沖でスペインの無敵艦隊と大海戦をしたのでは無いかという人も居ますね、スケールが大きい秀吉、革新的な世界視野を持っていた信長、それに対し鎖国と質素倹約を貫いた家康、もっとも秀吉時代に途切れた朝鮮との国交を回復したのは家康と言われていますが
三者三様面白いですね。 *内容の間違いはご容赦下さい
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