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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 81

2024年04月26日 08時21分59秒 | 甲越軍記
 天下大乱の時なれば、一国として乱れぬ国はない
人民は朝には家を捨てて東西に逃げ惑い、夕べには馬蹄に踏み殺される
老幼を抱えて南北に逃れ隠れる。
けれども武田家の領地は他国に侵されることなく、晴信の武威によって四民はそれぞれの業に励み、豊かな暮らしをしている。

同年八月、晴信は瘧疾(ぎゃくしつ=発熱、寒けの繰り返し=おこり=マラリアのような病気)に罹った
板垣法印が様々な薬を処方したが九月まで治らないので、「戸石合戦で甘利、横田を始め多くを失ったことで気を病んでしまい、すでに卒去したのだ」 
という噂が隣国にまで広がった。

 上野国の(管領)上杉旗下の諸将、倉賀野、箕田、上田、松本、和田、前田、師岡など三月に村上に同意して武田方を攻めたが、板垣信形に逆襲されて這う這うの体で逃げ帰り、味方である村上、小笠原勢からもの笑いものになった
 いま武田晴信卒去の噂を聞いて、「今こそ、あの屈辱を晴らすときだ、信州に攻め込み軽井沢から一つ一つ武田領を攻め取ろうではないか」と合意した

このことを箕輪の城主、長野信濃守にも話すと、信濃守はカラカラと大声で笑い、「我が上杉家の今の有様を見るに、勢いは衰え近年では北条氏康の勝手気ままを許し、一矢も報いることが出来ずにいる
こちらに手出しもしていない武田に戦を仕掛け合戦するなど尋常ではない
儂が三月に御館にお諌めしたがお聞き入れ下されず、あのような大敗を喫した

武田晴信というのは若干十六歳の初陣で平賀源心を破ってから今日まで、一度も敗れたことがない、今年の戸石合戦では異朝の韓信、張良をも超える軍立てで村上の十倍の軍を破ったとのうわさあり、卒去と言うが確信もなく
このような者を相手に戦を仕掛けるなど、無謀極まりない、儂は下りる」
そう言って長野信濃守は箕輪城に帰ってしまった。

一座の者たちはみな長野の言葉に怒り「長野の一言は許し難し、こうなれば即刻信州へ乗り出して、軽井沢より武田の城を攻め取って長野の広言した口を塞いでやろうではないか」
倉賀野越中守、同六郎を大将に、新田、舘林、山上、白井、忍、深谷、五甘、厩橋などから総勢三万三千余の大軍で九月下旬、上野国を発った。

これを聞いた晴信だが、病は回復せず悩んだ
右馬之助信繁、穴山伊豆守信良を諏訪に向かわせ、諏訪郡代の板垣駿河守信形に上野勢を追い払うべしと命じた
加勢は栗原左衛門尉、日向大和守、小山田左兵衛、小宮山丹後守、信州先鋒は芦田下野守、相木市兵衛を加え総勢七千余騎

十月四日に加勢は甲府を発ち、板垣に合流した
六日巳の刻には碓井の西、軽井沢に着いた、ここで敵の情報を探ると既に敵も碓井の東、坂本宿に着いているとのこと
軽井沢と坂本は僅かに二里半(約10km)両者の中間は上信の国境、即ち東山道最大の難所、碓氷峠
信形は「まだ敵は峠に着いていないのは幸いである、峠にあって敵を下に待ち構えることが勝利の条件である、急ぎ出立して敵より先に峠を抑えるべし」
信形が先頭になり、急ぎ出陣した
一方、上州方も同じことを考えて、上田又次郎を先鋒として急ぎ碓井峠を上り始めた
一歩早く上州勢が峠を越えたが、板垣はこれを見て「敵の備え無きうちに、峠に至って峠から攻め落とせ」と遮二無二に攻めかかる
武田勢の凄まじい勢いに、上州勢は早くも峠から押し戻されつつある
その中から現れたのは藤田丹後守と名乗り、昔新田(にった)の十六騎の一人藤田丹後守の末葉なり、その剛力も先祖に負けぬ強者
黒糸縅の鎧に、兜もつけず乱れ髪の上に、鎖を入れた頭巾をかぶり、手には柄も刃もそれぞれ五尺の大長刀を振り回し、小躍りして武田勢の中に切って回る
流石の板垣勢も、これには押しまくられて下がる
互いに頂上をとらんと攻めては逃げ、逃げては攻め上るが藤田丹後が暴れてからは上州勢が有利となった
しかし板垣勢の中からも強者あり、板垣の甥、三科肥前守当年十九歳、広田郷左衛門十八歳の二人、藤田を見て「これぞ究極の我らの獲物なり」と突きかかる





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