皆様は、自分の中で『邪馬台国』あるいは『縄文人』の国、『弥生人』の国、そして『大和朝廷』・・・・・この歴史を自覚しておられますか。小学校で、中学校で、高校で、私達日本人は日本の歴史を学びます。でもそこに今の自分につながって脈々と流れる先祖からの『血』を感じておられますか?
私が今日まで何に突き動かされて言わば手当たり次第、何もかも知りたかったのかと言うと、それは知識の中の歴史と自分の中に流れる血の記憶とでも言うべき歴史を整合させたいという『心の叫び』でした(と今になって思います)。それが宗教に憧れを感じた子供の日から仏教やキリスト教等にふれた学生時代、七夕伝説から古事記・万葉をさまよい続けた日々、『ホツマ伝え』に行きつき安堵と失望を感じた日々、等々50年余の彷徨の末、カタカムナとマクロビオティックに行きつきました。
それが昨年念願がかなうべき最後の出会いを果たしました。何度もこのブログでご紹介した川崎真治先生の歴史学です。『カタカムナ』と『マクロビオティック』とそして『言語歴史学(と川崎先生の手法による歴史学を呼びたいと思います)』、この三つが同時にあって私は今の確信に到達しました。
この三者は私にとって本当に三つ巴で、カタカムナがなければ言語歴史学が分からない、マクロビオティックがなければカタカムナが分からない、言語歴史学が無かったらマクロビオティックインスピレーションの手がかりがない、そしてその逆のマクロビオティックインスピレーションが無ければ言語歴史学も分からない(意味がない)、カタカムナがなければマクロビオティックも意味がない、言語歴史学がなければカタカムナも意味がない(私にはお役にたてるような分野が与えられない)・・・・・・そんな関係で60年余の人生の試行錯誤で段階的に得てきた知覚の最終章だと確信しています。お陰でありがたくも、
全てが結びつきました!!!
ところで邪馬台国・・・・・この奇妙な日本人にはなじみ得ない漢字でありながら、一方これまた奇妙に懐かしい響きの音を持つ国は一体何なのでしょうか。日本史の中に邪馬台国時代というのはありません。それは『魏志倭人伝』によって弥生時代のどこかに埋もれています。そしてその後の古墳時代を経て大和朝廷につながるものも明確にされていません。一方で『卑弥呼』は『天照大神』だとか、『神功皇后』だとか、諸説紛々何も明らかにされていません。その所在も『魏志倭人伝』をたどる以外に何の根拠もありません。縄文人だって私達とどうつながっているのか、それが弥生人によってどうなったのか、それ以前に縄文人が誰なのか、弥生人が誰なのか、それすら分かっていません。縄文人は私達ではなく、琉球人とアイヌ人なのか・・・・?
この不安感が私を古事記の世界に誘い込んだ原因です。この血と体を持った私は一体誰なのですか???この日本人が忘れていたアイデンティティを取り戻すという仕事に、私は自分の意味を見出しています。今日は結論だけにして、これからの展開にその間を埋める理由を明らかにしていくつもりです。
邪馬台国は神武天皇がお生まれになった九州の地にあった『ヤマト国』を称して、魏志用に『陳寿』が作った国名の当て字です。それで東に移った大和朝廷が神武天皇に自分の国の謂れとして『カムヤマトイワレヒコ』を贈り名したのです。この『邪馬』は『ジャバ』であり『ヤバ』であり、今日も耶馬渓が残っています。そして『ジッポン』『ジャパン』の音のもとで、漢字採用後に『日本』の根拠の一つともなりました。もう一つの根拠は神武天皇による東征で、高句麗以来の『邪馬』=『東』に『日いづる国』の意味をとったものです。でも読み方は古代以来2000年、あるいは3000年以上ずっと『ヤマト』です。
では『ヤマト』なる国号はどこから来たのかというと、それは『邪馬』が来るはるか以前に日本列島にいた縄文人の『イヤマト』・・・・・『まほろば』や『ホツマ』を生み出す語源となる言葉をから『ヤマト』国は生まれました。それを構成民族を知っていた陳寿が『邪馬台国(邪馬の国)』と当てたのです。陳寿がなぜ『邪馬』なる字を当てたかというと、神武天皇の系統が殷だと言っているのです。
詳しくはブログ記事『 五色人の謎』シリーズ4編(1、2、3、4)を読んでいただきたいと思いますが、我等がアジアには蛇族とその亜流である鳥族、中東からそのままの部族性を持って辿り着いた牛族とそこから発展的に(?)派生した犬族と馬族の五部族がいて、その国の地理的性格により単一部族で国を作ったり、扶余の国民構成のように四部族であったり、高句麗のように五部族であったりしました。殷は鳥族の国でしたが、川崎先生は犬族を抱えていたと言っておられます。その鳥・犬の殷が周に追われた時、敗戦国民が『豬』と呼ばれ『邪馬』と呼ばれ蔑まれました。中華の陳寿は不敬にも、逃れて日本に辿り着いた殷人が縄文人に受け入れられて作っていた『イヤマト』の国の『ヤマト』に『邪馬台』なる字を付けたのです。まあそのおかげで天孫の天祖がどういうお方か知ることが出来ました。
この殷が周に追われた、或いは女媧伏犧が炎帝神農氏に代わられた時代のお話が織姫彦星の七夕伝説だと思います。織姫様は天帝の娘です。彦星は牛を引いている牽牛です。鳥族が機織り(絹織物)を発明し、牛族が農耕を連れてきました。そして追われてもなおアジアの天帝は以来ずっと鳥(その祖の蛇)で、お使いは風と雲(水)の化身・鳳凰と龍です。ギリシャ神話の主神ゼウスが何に変身するかご存知ですか?ゼウスは牡牛に変身するのです。私にはこれがずっと謎でした。
なぜゼウスは牡牛になって人間社会に現れるのか!!!!
犬として発展しその究極の姿が狼の犬族でも、その父祖の姿は牛だったんですね!!何故ペガサスではなかったのか!!それは馬はゼウスの時代に人々が見たことのなかった動物で、各地に進出した後『風のように走る馬』と出会ったそうです。その昔オリエントに馬はいなかったらしいのです。そして何故龍ではなかったのか!!それは蛇族は牛族から追われて出ていった、あるいは牛族を捨てていった部族なんです。ですから犬族の記憶の天帝は、人力の抗いようのない荒れ狂う強い牡牛だったんですね!
邪馬台国ではない『ヤマト』国は縄文人と縄文人に受け入れられた殷人鳥族の国です。その縄文人が何人かというと、殷人の祖と同じ蛇族が3万年も前日本列島に辿り着いて日本で特殊化した人々(蛇文人)です。縄模様は蛇模様なんです。蛇のことを『くちなわ』と呼びますよね。その人々を私は『海津(ワタツ)族』と名付けています。この人々がカタカムナ人だったと私は信じています。天孫が結婚なさったコノハナノサクヤヒメも、ウガヤフキアワセズノミコトの母君豊玉姫も、神武天皇が九州で結婚なさったアビラツ姫もみんなワタツ族です。何故安珍清姫の物語に見られるような、馬(犬・牛)男が蛇女に追われるという鋳型があるのか、鶴の恩返しの鳥女がなぜ機織りをするのか、私達は『ヤマト』国を自分の血という記憶の中に取り返せるはずです。
そういうわけで今日の記事・私の邪馬台国は、私の血が納得した柿本和子説です。実は今年古事記編纂1300年の記念すべき年だということで出版の企画がありましたが、私のような名もない者の随想ですから頓挫してしまいました。自費出版という選択もあったのですが、私にはブログという公開の機会があることをあらためて思い、延々と長い展開になるかもしれませんが、『随想古事記』としてブログの記事にすることにしました。先日の私の夜の部の『ヒレフリ山』教室で発表したところ、参加メンバーからはその決心を喜んでいただきました。それで今回ブログのカテゴリーも整理し直して、これからの一連の記事を『父の背負子』カテゴリーに独立させたいと思います。これまでの『父の背負子』に入れていた記事は、中身を検討して残すべきものを一つ残しその他を新たな『父の懐』というカテゴリーに移しました。
どうぞ皆様もお仲間になっていただいて、自由に意見・感想をお寄せいただけたらと思います。よろしくお願いします。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
私が今日まで何に突き動かされて言わば手当たり次第、何もかも知りたかったのかと言うと、それは知識の中の歴史と自分の中に流れる血の記憶とでも言うべき歴史を整合させたいという『心の叫び』でした(と今になって思います)。それが宗教に憧れを感じた子供の日から仏教やキリスト教等にふれた学生時代、七夕伝説から古事記・万葉をさまよい続けた日々、『ホツマ伝え』に行きつき安堵と失望を感じた日々、等々50年余の彷徨の末、カタカムナとマクロビオティックに行きつきました。
それが昨年念願がかなうべき最後の出会いを果たしました。何度もこのブログでご紹介した川崎真治先生の歴史学です。『カタカムナ』と『マクロビオティック』とそして『言語歴史学(と川崎先生の手法による歴史学を呼びたいと思います)』、この三つが同時にあって私は今の確信に到達しました。
この三者は私にとって本当に三つ巴で、カタカムナがなければ言語歴史学が分からない、マクロビオティックがなければカタカムナが分からない、言語歴史学が無かったらマクロビオティックインスピレーションの手がかりがない、そしてその逆のマクロビオティックインスピレーションが無ければ言語歴史学も分からない(意味がない)、カタカムナがなければマクロビオティックも意味がない、言語歴史学がなければカタカムナも意味がない(私にはお役にたてるような分野が与えられない)・・・・・・そんな関係で60年余の人生の試行錯誤で段階的に得てきた知覚の最終章だと確信しています。お陰でありがたくも、
全てが結びつきました!!!
ところで邪馬台国・・・・・この奇妙な日本人にはなじみ得ない漢字でありながら、一方これまた奇妙に懐かしい響きの音を持つ国は一体何なのでしょうか。日本史の中に邪馬台国時代というのはありません。それは『魏志倭人伝』によって弥生時代のどこかに埋もれています。そしてその後の古墳時代を経て大和朝廷につながるものも明確にされていません。一方で『卑弥呼』は『天照大神』だとか、『神功皇后』だとか、諸説紛々何も明らかにされていません。その所在も『魏志倭人伝』をたどる以外に何の根拠もありません。縄文人だって私達とどうつながっているのか、それが弥生人によってどうなったのか、それ以前に縄文人が誰なのか、弥生人が誰なのか、それすら分かっていません。縄文人は私達ではなく、琉球人とアイヌ人なのか・・・・?
この不安感が私を古事記の世界に誘い込んだ原因です。この血と体を持った私は一体誰なのですか???この日本人が忘れていたアイデンティティを取り戻すという仕事に、私は自分の意味を見出しています。今日は結論だけにして、これからの展開にその間を埋める理由を明らかにしていくつもりです。
邪馬台国は神武天皇がお生まれになった九州の地にあった『ヤマト国』を称して、魏志用に『陳寿』が作った国名の当て字です。それで東に移った大和朝廷が神武天皇に自分の国の謂れとして『カムヤマトイワレヒコ』を贈り名したのです。この『邪馬』は『ジャバ』であり『ヤバ』であり、今日も耶馬渓が残っています。そして『ジッポン』『ジャパン』の音のもとで、漢字採用後に『日本』の根拠の一つともなりました。もう一つの根拠は神武天皇による東征で、高句麗以来の『邪馬』=『東』に『日いづる国』の意味をとったものです。でも読み方は古代以来2000年、あるいは3000年以上ずっと『ヤマト』です。
では『ヤマト』なる国号はどこから来たのかというと、それは『邪馬』が来るはるか以前に日本列島にいた縄文人の『イヤマト』・・・・・『まほろば』や『ホツマ』を生み出す語源となる言葉をから『ヤマト』国は生まれました。それを構成民族を知っていた陳寿が『邪馬台国(邪馬の国)』と当てたのです。陳寿がなぜ『邪馬』なる字を当てたかというと、神武天皇の系統が殷だと言っているのです。
詳しくはブログ記事『 五色人の謎』シリーズ4編(1、2、3、4)を読んでいただきたいと思いますが、我等がアジアには蛇族とその亜流である鳥族、中東からそのままの部族性を持って辿り着いた牛族とそこから発展的に(?)派生した犬族と馬族の五部族がいて、その国の地理的性格により単一部族で国を作ったり、扶余の国民構成のように四部族であったり、高句麗のように五部族であったりしました。殷は鳥族の国でしたが、川崎先生は犬族を抱えていたと言っておられます。その鳥・犬の殷が周に追われた時、敗戦国民が『豬』と呼ばれ『邪馬』と呼ばれ蔑まれました。中華の陳寿は不敬にも、逃れて日本に辿り着いた殷人が縄文人に受け入れられて作っていた『イヤマト』の国の『ヤマト』に『邪馬台』なる字を付けたのです。まあそのおかげで天孫の天祖がどういうお方か知ることが出来ました。
この殷が周に追われた、或いは女媧伏犧が炎帝神農氏に代わられた時代のお話が織姫彦星の七夕伝説だと思います。織姫様は天帝の娘です。彦星は牛を引いている牽牛です。鳥族が機織り(絹織物)を発明し、牛族が農耕を連れてきました。そして追われてもなおアジアの天帝は以来ずっと鳥(その祖の蛇)で、お使いは風と雲(水)の化身・鳳凰と龍です。ギリシャ神話の主神ゼウスが何に変身するかご存知ですか?ゼウスは牡牛に変身するのです。私にはこれがずっと謎でした。
なぜゼウスは牡牛になって人間社会に現れるのか!!!!
犬として発展しその究極の姿が狼の犬族でも、その父祖の姿は牛だったんですね!!何故ペガサスではなかったのか!!それは馬はゼウスの時代に人々が見たことのなかった動物で、各地に進出した後『風のように走る馬』と出会ったそうです。その昔オリエントに馬はいなかったらしいのです。そして何故龍ではなかったのか!!それは蛇族は牛族から追われて出ていった、あるいは牛族を捨てていった部族なんです。ですから犬族の記憶の天帝は、人力の抗いようのない荒れ狂う強い牡牛だったんですね!
邪馬台国ではない『ヤマト』国は縄文人と縄文人に受け入れられた殷人鳥族の国です。その縄文人が何人かというと、殷人の祖と同じ蛇族が3万年も前日本列島に辿り着いて日本で特殊化した人々(蛇文人)です。縄模様は蛇模様なんです。蛇のことを『くちなわ』と呼びますよね。その人々を私は『海津(ワタツ)族』と名付けています。この人々がカタカムナ人だったと私は信じています。天孫が結婚なさったコノハナノサクヤヒメも、ウガヤフキアワセズノミコトの母君豊玉姫も、神武天皇が九州で結婚なさったアビラツ姫もみんなワタツ族です。何故安珍清姫の物語に見られるような、馬(犬・牛)男が蛇女に追われるという鋳型があるのか、鶴の恩返しの鳥女がなぜ機織りをするのか、私達は『ヤマト』国を自分の血という記憶の中に取り返せるはずです。
そういうわけで今日の記事・私の邪馬台国は、私の血が納得した柿本和子説です。実は今年古事記編纂1300年の記念すべき年だということで出版の企画がありましたが、私のような名もない者の随想ですから頓挫してしまいました。自費出版という選択もあったのですが、私にはブログという公開の機会があることをあらためて思い、延々と長い展開になるかもしれませんが、『随想古事記』としてブログの記事にすることにしました。先日の私の夜の部の『ヒレフリ山』教室で発表したところ、参加メンバーからはその決心を喜んでいただきました。それで今回ブログのカテゴリーも整理し直して、これからの一連の記事を『父の背負子』カテゴリーに独立させたいと思います。これまでの『父の背負子』に入れていた記事は、中身を検討して残すべきものを一つ残しその他を新たな『父の懐』というカテゴリーに移しました。
どうぞ皆様もお仲間になっていただいて、自由に意見・感想をお寄せいただけたらと思います。よろしくお願いします。
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!