ライブ インテリジェンス アカデミー(LIA)

日本の伝統文化の情報を国内外に配信していくための団体です。 その活動を通じ世界の人々と繋がっていく為の広報サービスです。

煎茶入門講座Ⅱ は、「あなたと一緒の茶・・・思いの一滴」。

2020-10-06 11:50:25 | 文化想造塾「煎茶」

「煎茶入門講座」の第2回目は、「あなたと一緒の茶・・・思いの一滴」がテーマ。
1回目は「自分だけの茶」・・・、絶妙な一滴だった。文人が愉しんだ煎茶はあくまでも自分が愉しむお茶として成り立っている。

今回は「あなたと一緒」に愉しむ一滴。自分が美味しいと思うから、相手に勧める。今回は茗碗が2つ。

前回と同じく6煎の味の変化を愉しむ。玉露の茶葉を急須に惜しみなく入れる。それに数滴たれる程度の湯を入れる。入れたあと、茗碗に注ぐまでの待ち時間が味の変化を左右する。2つの茗碗に交互に一滴、一滴たらす。それをまず自分が味わい、そして相手に勧める。この繰り返しで6煎の変化を愉しむわけである。味の変化は確かに違う。"甘味、渋味、苦味"の三味の変化が各煎ごとにそれぞれ違う。
亭主の6煎まで淹れるテンポがそれぞれ一煎ごとに違う。その時の自分の心境や相手への思いなどによって三味がその都度、また変わる。亭主は、それを客人が読みとってくれることを期待している。

いまでいうコミュ力ではなく、煎茶コミュ力ということになるのだろうか。

たしかに文人煎茶は喉を潤すものではない。五臓六腑にしみわたることはないが、内界に染み渡るのはまちがいない。
私の命題である、伝承された文化がいまの暮らしにどんな影響をもたらすのか、と自問自答しているが、文人煎茶講座は一歩進んだが、身近な暮らしからまた一歩遠ざかっていく。

次回25日が今回の講座としては最後。「人生を味わう茶」・・・沁みわたる一滴。さてさて一滴のお茶で人生が語れるのか、実に楽しみである。

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文人が求める煎茶。それは、「離俗の美」。 【一茶庵 煎茶入門Ⅰ】

2020-10-04 16:49:33 | 文化想造塾「煎茶」

これほどまでに日常と一線を引く所作はない。

そんな思いを抱いたのが、10年近く前に、煎茶稽古をはじめてまだ間もない頃、文人会一茶庵で「煎茶入門」という講座に参加したとき。その記憶が鮮明に残っている。


おこがましいが、ブログ記事を書く上で常に大切にしていることがあった。それは、取材テーマにしている日本の伝統文化を “日頃の暮らしに反映させる” ことである。それでこそ、いまやっていることの意義や意味があると思っていたからである。
ところが、この煎茶入門講座3回シリーズで学んだことは煎茶道への一歩ではなかった。「雅」でも「俗」でもない"離俗の美"を求める「文人煎茶」へのものだった。実生活の生活感から離れ、和漢の古典文学をもとにイメージを膨らませる和漢混淆の美、つまり「離俗の美」を追求するものであることを知らされた。

3回講座の第一回目は十数名の方が参集、一茶庵宗家の佃一輝宗匠のご指導を受けた。一回目は「自分だけの茶・・・絶妙な一滴」というテーマだった。そして玉露を自分だけで愉しむ、というのがサブテーマだったことを記憶している。

椅子に座り目の前には、玉露を入れる小品急須である茶銚、煎茶の茶碗である茗碗(めいわん)。それから茶合、托子、水柱、巾承などが置かれていた。
小さな急須に惜しげもなく玉露の茶葉を入れる。その急須に少量の湯を注ぐ。急須を茗碗に傾け搾り出すかのように一滴が出てくるのを待つ。茗碗にたれた一滴の茶の匂いを愉しみ、そして舐める。
この所作を6煎続ける。毎回、急須に注ぐ少量の湯は同じところに注ぐ。そしてまた茗碗に垂らす。1煎ごとそれぞれの味の変化を五感で愉しむ、というものである。

むかしの文人はこのようなことをしながら書斎で愉しんでいたようである。自娯の心が煎茶を絶妙なものにするといわれている。この時間が、まさに離俗ということになる。
誰のためにするものではない、ただただ自身の喜び愉しみの世界を味わうためのものである。ちなみに6煎のあとに湯を注ぎ、茗碗一杯の茶をのむなら「俗」になってしまう。さらに、最高の茶葉で締めにお茶づけでもしようものなら・・・。文人煎茶では、絶対にありえない、という。

そして次回、最終回でどんな一滴が愉しめるのだろうか。

 

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霜乃会、新感覚の古典芸能エンターテイメント!

2020-10-03 16:06:35 | 伝統芸能

昨日、久しぶりに人の集まるところにお邪魔した。

先日来、能楽師 林本大氏をYouTube「アスライトチャンネル」で紹介するための取材を行っている。その時に、林本氏から日本の伝統芸能の若手演者のグループ「霜乃会(そうのかい)」の年一回の講演の案内をいただいた。

その講演を昨日、大阪梅田のHEP HALLに観に行ってきた。霜乃会は「和の魅力、個の魅力が織りなす新感覚エンターテイメント」というキャッチフレーズで活動を行っている。

伝統芸能を伝承していくために、異なる分野の若手演者が集まり、古典芸能の魅力を新しい感覚で伝えている。

霜乃会は、講談の旭堂南龍氏をはじめ、能楽の林本大氏・今井哲朗氏(共にシテ方)、浪曲の京山幸太氏、文楽浄瑠璃の竹本碩太夫氏(文楽大夫)、鶴澤燕二郎氏(文楽三味線方)、落語の桂紋四郎、そして茶道の松井宗豊氏の面々。

個性豊かなそれぞれの演者の技能を一堂に観ることができるのは、まさにエンターテイメントである。演じる側もそれぞれの刺激を享受し、そして観る側の興味がそれによってさらに増幅されていくような感覚になった。

日本の伝統芸能をけん引していく団体として霜乃会の役割は大きい。また、それぞれがそれぞれの分野で日本を代表する古典芸能の伝承者として活躍していただきたいものである。

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日本でただ一人の、全盲の琵琶法師。 盛者必衰の滅びゆく平家琵琶なのか!?

2020-10-01 14:11:41 | 伝統芸能

NHKEテレで10月2日(金)  23時00分~23時55分  の放送される、にっぽんの芸能「現代に響く!古典の名作“平家物語~那須与一”」の番組告知をみて心が少し高鳴っている。

サブタイトルが、平家琵琶の伴奏で語る今井検校勉の実演は圧巻!「平家琵琶」の伝統がなぜ名古屋に残るのか?その謎にも迫る、というもの

平家物語を琵琶の伴奏によって語る「平家琵琶」は、あらゆる日本の伝統芸能のルーツともいえるだろう。明治以降、その伝統的な継承はほぼ途絶えてしまった。そんななか、名古屋では代々の尾張徳川藩主が芸事を重んじてきたため、その名残で今もその伝統は受け継がれている。

その平家琵琶は800年の歴史を刻む伝統芸能であるが、現在、本格伝承者としては愛知県江南市の今井検校勉さん。盲人伝承とされてきた名古屋の語り芸能「平家(平曲)」の演奏者で、名古屋だけに残された、師から伝えられた奥義である衣鉢をただ一人受け継ぐ琵琶法師である。鎌倉時代にまでさかのぼる、世界的にもまれな仏教文化遺産である。

この今井検校勉さんについては、以前、実際にご自宅まで押しかけ取材し、記事を書いたことがあるので強く印象に残っている。

その時に言われたことがいまも深く刻まれている。「音楽的に優れている盲人男子の弟子にのみ伝授するという伝統の掟があるため、晴眼者の入門を退けてきた。だから弟子がいない」と。そしてさらに「この伝統を変えることはない」 という言葉が胸に刺さったことを記憶している。                                 まさに、盛者必衰の滅びゆく平家琵琶なのか!とつぶやいたことを、そのまま記事の見出しに使った。この記事の見出しも、あえてそうさせていただく。

後日、京都の佛教大学アジア宗教文化情報研究所のシアター公演のときに、同大学名誉教授の関山和夫先生に話を聞いた。そのときの解説では、盲人の琵琶法師の語りは芸術でも音楽でもない、仏教である。と言う論説だった。荘厳で崇高なものである。音楽で捉えてほしくない、と言い切られた。                           今井検校勉さんでおそらく絶えてしまう文化遺産。盲人の語りは口伝承しかない。限られた人が苦しい修練を重ねてきたものである。さらに、音楽や芸術ではないと言うなら、悲しいかな伝承していく門戸は針に糸を通すようなもの。盲目の琵琶法師を文化遺産として、次世代に伝承するすべはないのだろうか。

※今井検校勉師の名前にある「検校」という意味は、中世・近世日本の盲官の最高位の名称。室町時代以降にその名称が定着した。

※写真は、今井検校勉師のネット画像より転載

NHK にっぽんの芸能

https://www.nhk.jp/p/nippongeinou/ts/5K1GW1XVN4/episode/te/JZ19KJW7WY/

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