一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

600  生に飽き世にも飽きたり五月富士   章子

2012年05月31日 | 

(せいにあき よにもあきたり さつきふじ)

ポールウァレリーが、第一次世界大戦後「諸君、嵐は去った。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐が起きようとしている矢先のように不安である」と言ったそうだが、これは「太平洋戦争後」や、「東日本大震災後」に置き換えても通じる名言ではないだろうか。

確かに、私の青春時代は「不安の時代」であったし、「虚無の時代」でもあった。神の死を宣言したニーチェのニヒリズムやサルトルの実存主義、ドストエフスキーなどを訳も分らないながらも読んでいれば、必然的に陥る暗黒の世界だろう。

さて、この句に共感するのは、青春時代から休みなく続いている私の「虚無感」に起因している。つまり、私の気分にぴったりなのである。

この作者に、私は共感はしても憐みは感じない。「五月富士」によって、こういう厭世的な句を作る人間が自殺する、とは考えにくいからである。

シライトソウ(白糸草) ユリ科シライトソウ属

コメント
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