彼が本堂に着くと、蛍さんは入口を入って直ぐの本堂の右手側の廊下にぼんやりと佇んでいました。
何時まで待っても父は現れず、知らない人ばかりが彼女の元にやって来るのです。
所在無い彼女は、本堂に現れた男の人にすぐに気付きました。そしてまた知らない人だと思いました。
父は何時自分を迎えに来てくれるのだろうとがっかりしてしまいました。
その知らない人が自分に近付いて来て声をかけて来るのです。また何か聞かれるんだわと、
彼女は内心うんざりしてしまい、もう大人の相手をするのが嫌になってきました。
それで彼におはようと声をかけられても黙っていました。
「おはよう、君は蛍ちゃんでしょう?」
そう男の人が2回目の声掛けをしても、彼女はやはり仏頂面をして返事をしませんでした。
そこで彼は返事を返さない彼女に、ちゃんと返事をしなさいと叱りました。
彼は緊張していたせいで、その叱り声が思わずきつくなってしまい、吃驚した蛍さんは弾みでおはようと言ったものの、
恐縮して目には涙が溜まって来てしまいました。丁度この廊下側は、本堂でも日が当たらない陰になる部分でしたから、
蛍さんのこの泣きそうな顔に男性の方は全く気付かずにいました。
「君にちょっと聞きたいんだがねぇ、」
と男の人は彼女が想像した通り質問を始めました。
「名前は○○蛍ちゃんでいいんだよね。」
彼女は震え声でそうだと答えます。男の人はその声に、おやっと、自分の言った言葉が彼女を委縮させてしまった事に気付きました。
ごめんごめんと、怒っているんじゃないんだよと笑顔で謝って、お嬢ちゃんの兄弟は誰と誰?お名前教えてくれないかなと、優しく聞いてみます。
それで蛍さんは少し勇気が出て、一寸不愛想にですが返事をしました。
「お兄ちゃんは清(きよし)、弟は源です。」
と答えます。やはりなと男性は思い、この子は自分が来た世界とはまた違う世界の子だと確信しました。
『それではやはり世界は2つだけではないのだ。』彼がそんなことを考え始めた時、
女の子の後ろから女の人の声がしました。
「蛍、もう機嫌を直したら。」
もうこちらへ戻っておいでと、何時の間にか廊下の奥で、座敷の方から来たらしい女の人の影が言います。
「いやよ、お兄ちゃんが謝らなければ戻らないわ。」