もし彼が向こうで生活していたならば、と舅は考えると、
彼はこの世の無常をこれ程嘆かずにいられただろうにと思うのでした。
むしろ逆に、自分の幸福を神仏に感謝していた事だろう。そう思うと、
向こうの世界の彼があれだけ事ある毎に寺に参拝し、自分とも寺でしばしば顔を合わせていた理由が頷けるのでした。
こちらの彼の話を聞くと、舅は何時も向こうの彼とこちらの彼を頭の中で比較せずにはいられませんでした。
徐々にですが、こちらの彼が大層不幸である事を知るに連れ、向こうの彼がもしこの世界の彼の身の上を知ったならば、
その自分の幸福に恵まれた立場に、きっと優越感を感ぜずにはいられないだろうと考えていました。
傍で彼の話を聞くだけの第三者の自分でさえ、彼等を比較して優劣を感じないでいられ無かったのですから、
今、本堂にいるあの子から向こうの父親の環境を聞いてきたばかりの彼が、
自分の事を比較して酷く惨めに感じているだろう事は容易に想像がつくのでした。
現在目の前にいる彼は、向こうに対して相当な劣等感を感じているはずだと彼の妹の舅は推察したのでした。
「まあ、そう気を落とさずに。ちゃんと幸福な自分もいる世界があるのだと思って、お気を楽にされるとよいですよ。」
自分が幸福な世界もあるのだと思えば気が晴れるかもしれない。そう思った舅が言うと、彼は気を楽にだって?全然だよと反論します。
「どっちかって言うと、こんな酷い事があるもんかね。」
と吐き捨てるように言うのでした。
「今まで運命だと諦めていた事が、向こうでは全然起きていないんだ。びっくりだったよ。そんな不公平な事があるもんか。」
向こうとこちらの違いが無いとは思わなかったよ、確かにね、それは確かにあるだろうさ、あの蛍という子の事もそうだったからね。
けれど、違いがあっても少しだけの事だと思っていたんだよ。それが如何だい、どうしてこんなに違っているんだ。
と、彼はへなへなと座り込み、その顔はかなり緊迫した顔付きで、酷い焦燥感に囚われた顔色をしています。
それは放っておくと、とんでも無い悪事にでも手を染めそうな顔付きでした。
その顔付きを見て、ああ、これはいけないと、目の前にいた男性も、住職さんも、お寺の奥様方も感じます。
早めに彼を落ち着かせて、怒りに昂る気持ちを静めるようにして上げないと、
この儘の気持ちで興奮させておいては彼の為に良くないと思います。
先ず目の前にいた男性がしゃがんで彼の肩に優しく手を触れると、ポンポンと労うようにそっと叩き、
「この世界での君は今までとても頑張って来て立派だったじゃないか。」
と、妹の事を一心に考えて良い兄さんだったし、家の事にもせっせと取り組んで、偉い人だよ。と、
本当に見上げたものだったよ、私は今まで何時も感心して見て来たんだ、仕事熱心だしね、大したものだよ。
向こうの役立たずなお坊ちゃんとは大きな違いだと、その跡取りとしての彼が今迄して来た奮闘を盛んに褒め上げました。
褒められた彼は赤くなり、照れて微笑み少し落ち着きましたが、また自虐的に、
「跡取りだって?、父さんも、兄ちゃん達も、皆あの戦争で亡くなってしまって、後を追う様に母さんさえ亡くなってしまって、
残ったのが俺1人だから仕方無く家の事をする事になっただけじゃないか。」
そう言うと、また怒りに駆られたように次々と不満を並べ始めました。
しかも、妹は家業を手伝いもしないで勝手に自分の縁談をまとめて出て行くし、
俺があの子の縁談で何かした訳じゃなぁないんだ。御覧の様に、自慢じゃないが俺は未だに独り身でね、
自分の縁談も纏められないんだよ。可笑しい話さ。
「それに、仕事熱心だって?、俺が?。」
そりゃあ商売家といえば聞こえはいいが、取引が有ればこその商売でね、普通は相手先が出来ればそれで良しだが、
その相手先が何時もきちんとしている訳じゃあ無いんだ。儲からないで損をする時もあれば、返品される時もある。
全然仕事にならない時もあるんだ。散々回ってもこれだよ。常に回っていなければいけないんだ、熱心にもなるよ。